闇の中にはヒカリがあり、光の周りには壁がある。

荻上チキ氏の『彼女たちの売春(ワリキリ)』読了

「売春」と書いて、『ワリキリ』と読むそうだ。

心と身体ではなく、おカネとカラダという割り切った関係だから、ワリのいい、キリのいい関係だから、そういうことらしい。

彼女たちはワリキリという行為を自分で選択したことは確かだ。
でもその仕事を強要されたという文脈でやると決めたり、貧困状態や障がいを持った状態でやむにやまれず決断したという経緯の場合、それを自己責任と言い切るのはあまりに粗暴な言い分なのではないかと思う。

でも、それを粗暴と言い切るためには、この国にはあまりにもデータが少なすぎる。そういった領域からは目を背けたいという気持ち、経済的な豊かさを背景にして、そのような仕事が選ばれることはないだろうという自分の立場中心的な見方などがある。
さらに、仮に政府の統計によるデータがあったとして、それが本当に確からしいのか、という話も最近は出てきてしまうのが残念なところでもあります。

『売春はいつも、個人の心の問題などに還元されてきた。政治や社会の問題として語られるときは、包摂ではなく排除の対象として、セーフティネットではなくスティグマ(烙印)が必要な対象として、生命や人権の問題としてではなく風紀や道徳の問題として、売春は受け止められ続けてきた。』

と荻上氏は述べている。そして、そのような言説は、

『これらは凡庸で退屈な、無慈悲さに無自覚なクリシェ(常套句)である』

と切り捨ててもいる。
そこまで喝破できるのは、同氏が地道なフィールドワークを通じて、何百人もの女性や出会い喫茶の経営者へのインタビューを積み重ねてきたからだ。

3~4割は何らかの経済的理由で困窮
3割は何らかの病気や障害を抱えている
3割はDVや虐待の経験がある
2割が中卒、高校中退・高卒6割
友人・知人の紹介が約6割
1日に1万件以上のワリキリが成立
月に1度以上の頻度でワリキリを行う女性が、少なくとも10万人前後は存在していると考えられる

3割は何らかの病気や障害を抱えている
3割はDVや虐待の経験がある
2割が中卒、高校中退・高卒6割
友人・知人の紹介が約6割
1日に1万件以上のワリキリが成立
月に1度以上の頻度でワリキリを行う女性が、少なくとも10万人前後は存在していると考えられる

「風俗」「出会い喫茶」という言葉の裏に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた、ほとんどの人が直面したくないデータが、荻上氏の取材の中で、次々に浮き上がってくる。

そして、

『虐待や暴力を受け続けた彼女たちが、NPOや行政などに頼ったことがあるという話はほとんど聞いたことが無い。』

という支援サイドにとっては耳の痛い当事者の発言。
本当に支援を必要としている当事者には、支援がなかなか届かないという支援者サイドの声はこれまで何度も聞いてきた。それを改めて需要者サイドの言葉として聞かされると、需給のミスマッチの存在が、双方の発言から繋がってRealizeされる。

『家の無い者は生活保護を受けられない、というウワサ
生活保護を申請したら家族に連絡されて捕まる、という恐怖
売春は違法だから捕まって刑務所に入れられる、という思い込み
名前は聞いたことがあるけれど、どこに行けばいいのか、どんなものなのかも知らない』、という未接続状状態

サービス提供者側のリーチの拙さ、初動の遅さといった当事者から見たときの障壁の多さを衝いて、困難に直面した女性にアプローチしていくのは様々な風俗サービスやいわゆるカタギではないビジネスマン達。
多くの支援は、戦術面でそういった産業・ビジネスに圧倒的に劣後しているのが実情だったりします。

一方で難しいのは、そういったダークな産業・ビジネスの「黒さ」にも濃淡があるということでもある。後段で紹介される難波の出会い喫茶発祥の店の店長は、自分が始めた業態を次のように語る。

『女の子も、誰も好きでこんな世界に来るわけじゃないですやん。やっぱりお金がないから来るわけでしょう。あれもこれも辛抱せえ言われても、お金がなければ、自然の流れで売春っていう方法しかないですやん。そういう子だけやなくても、ただ人とうまう調和できないとか、理由があって朝起きられないとか、社会に順応でけへん子たちが働くところがあってもいいんちがうやろうか。』

ちなみにこの店長も、親に育児放棄されて農家の養子になり、カタギではない世界に身を投じた後に大病を患い、一時期は西成でホームレスをしていたという人である。

そしてそんな身の上の人から新規事業創出のための真言が飛び出してくるから事態は余計に複雑になるのである。。。
『発案した人間の魂っちゅうのがあるんですよ。魂っていうのは、コンセプトを言うんですけど。絶対に金を追いかけるな。人を追いかけろと僕は店員によく言うんです。』
この発言だけ切り出したら完全に新規事業創出セミナーとかで誰か言ってそう。でも、出てきたのは出会い喫茶という一風俗サービス形態だったりするわけです。技術とアウトプットは分けて考えなければいけないという誰かの発言を思い出しました。。。

荻上氏は、この創案者のインタビューパートの後に次のように書いている。

『批判として可能であることと、その批判が代案を用意してくれるかというのは別問題だ。』

出会い喫茶創出者は、彼の半生と反省を込めて、彼なりにできるパッチを充てた。
それは単純に風俗産業を糾弾して終わり、そこで働く人を批判して終わり、という人と比べてどう捉えればよいのだろうか。
来てくれればいい支援なんだ、更生できるんだ、と構えてるんだけど「Twitterはちょっと・・・、SNSは使い方が・・・」とか「まずは来所してもらってから・・・」とか言っている支援と比べてどうか。

そこには貧困状態から脱却できたかどうか、社会的な孤立は解消されたのか、不幸にも家族から向けられる暴力などから逃げられているのか、などなど色々な観点がある。たぶんどの物差しを手に取ったとしても、どれ一つとして満点回答が得られる対応ではないだろう。相対的に、ソレが少しだけ点数が高いというだけだと思う。

ひきこもりやニート、若年無業という問題、そして女性の貧困や困難という問題に固着しやすい売春という問題も、単一の組織、特定のサービスで解決するものではなく、教育機会の提供、家族の支援、就労先の多様性の担保とアクセス向上、貧困対策などなど多様な領域での支援を組み合わせてシステム的に解決することが重要ではないでしょうか

一部の支援者の方々にとっては、いまさら感のある話なのかもしれませんが、それを数値的なデータで裏付けようとされている点で意味があると思うし、そうじゃない人にとっても、当事者のリアリティを感じられる一冊だと思う。おススメ。

貧困に苦しむ当事者のインサイト

『子どもの貧困と自己責任論。湯浅誠が貧困バッシングに感じた「心強さ」とは』

色々と示唆のある 菊川恵さん編集の良記事。

『周りの子と同じように子どもを塾に行かせてあげるために、明かりをつけないで電気代を節約したり、食費を切り詰めるためにお母さんは1日1食にしていたりするんです。』

貧困の実態はなかなか見えてこない背景には、貧困に喘ぐ当事者が実情を外部に見せたがらないという心情がある。
当事者のインサイトにリーチしたからこそ子ども食堂ではなく、宅食というサービスが生まれたというのは、デザイン思考的な観点から見ると非常に示唆的だと思う。