イノベーションとオープンダイアログの相性

慶應SFCの井庭崇先生の『対話のことば-オープンダイアログに学ぶ問題解消のための対話の心得』を読了。

 

オープンダイアログは、様々な立場の参加者が対話を通じて当事者の抱える問題を、解決ではなく「解消」することを目指す手法です。もともとはフィンランドの精神医療の現場で開発されたものだそうです。国内では、ひきこもり支援の文脈での活用がポツポツ出てきている感じです。

個人的には、この方法は精神医療での適業に限らず、より広い分野でも活用しうる方法だと考えています。

冒頭の書籍ではソーシャルイノベーション領域での活用可能性に言及されていますが、おそらくもっと広いでしょう。

広義のイノベーション、例えば新規事業の創出や既存事業の改善といった部分でも使える手法なんじゃないかな。

実際、私の働き先の一つで、若者の起業支援を展開するGOBでは、同社が支援する起業チームに対して定期的にメンタリングの機会を設けているんですが、このメンタリングとオープンダイアログの手法はかなり相性が良いです。

GOBのメンタリングの場では、チームのリーダーとメンバー、メンター役の自分に加えて、最近そのサービスのヘビーユーザーが参加して協議の場を設けています。

立場の異なる参加者が、車座になって無印良品の「体にフィットするソファ」に身を任せながら、毎週1~2時間、いろいろなことを話します。

話の内容も、メンバーの誰かが「あれについて困っている」「これをどうしようか」と話し始める。それに対して批判や責任者探しをするのではなく、話を聞いて、それぞれが感じたことやどうしたらいいかを自由に話し合う感じです。

話していると、当時者が直面している問題に対する解決するときもあれば、そういうことが生まれる構造そのものが解消されることもあったりします。

そんな風に話をするときと、そうでないとき(例えばチームとメンターのみ)とでは、話の内容や話し合い後の展開がかなり違ってくる。

 

他者として関わることのデメリット

当事者の立場・目線をインストールすることで見えてくるものの重要さ

チームとの対話に論点によっては、その関係が対立関係に近いものになる時もあったんですよね。

対立関係になってしまうと、問題を他者目線で考えてしまう。でも、その目線になると、当時者が抱えている悩みや、当時者から見える景色を共有できない。

その結果、彼等の本音に迫ることができず、彼等が抱えている問題を彼等の立場でアプローチすることが難しくなる、ということがままあるわけです。

ここで敢えてチームの話に対する自分の価値判断を保留して、まずは聞くに徹する。彼らの立場で見える景色を直に理解すると、地に足がついた展望が見えてくることが多い。

 

「当事者と支援者」単線型のコミュニケーションの限界

輻輳型のコミュニケーションによって見えてくるもの

対話の参加者が、当事者と協力者だけだと、解釈の幅はどうしても限られてくる。

でも、そこに多様なメンバーが参加して、問題に対する解釈を提示することで、多様性が担保され、当時者がとらわれていた問題に対するアプローチがたくさんあることが明るみになる。

「問題に対するアプローチは(これしか)ない」という認識でいることと、「いろんなアプローチがあるし、そもそも問題の捉え方もこれだけじゃない」という認識でいることは、当時者の心理的な余裕にかなり違いを生むようです。

異なる解釈の掛け合わせによって新しいアイデアが生み出されることもあり、そういう意味では多様な参加者がその場にいることのメリットは大きい気がします。

 

問題の解決ではなく、解消につながる対話

冗長な話の展開に身を任せてみる

問題を解決するためのKPIを設定して淡々とそれをモニタリングして、ビハインドしたときには、その解決方法を考えるという、一見整ったアプローチは、しかしながら、問題の解決に終始してしまうことも多いです。

同じような問題が断続的に発生するときは、その背後にある構造自体に手を入れる必要があるけれど、そこまで視点が貫通しない。

そういうときは、比較的話の論点が移ろうことを許容して、一見解決にストレートにつながっていないようなやり取りに身を任せてみると、実は本質的な問題に対する処方箋が提示されたり、「要はこうすれば解決じゃね?」というようなバンカーバスター的な意見がぽっと出てきたりする。

対話の論点の枠を設定しないことで、多様な解釈がそのポテンシャルを発揮できるようです。

 

透明性、信頼関係、持続性

こういった対話の場が構築できている背景として重要なのは、「信頼関係」「透明性」「持続性」という相補的な要素がベースにあるのが大きいと思います。

お互いがどういう考え方の人なのかわかっているからこそ、正直に話せる。何度会っても苦にならない。

話している内容がお互いいい意味で筒抜けなので、相手を思いやりながら話せるし自分がどう考えているのか、どう思われているのかを受容できる、次回の打ち合わせが怖くない。

何度も続けているからこそ相互理解は深まり、本音を話すことができる。

この要素があると、オープンダイアログの効果はかなり高まると思います。偶然にも、参加しているインキュベーションチームがこれらを満たしていて、非常にいい環境で検討を進められているように感じます。

 

オープンダイアログの活用事例は、国内でもまだ少なく、医療・福祉領域に限られているけれど、適用可能な領域はかなり広いでしょうね。

特に、じっくりとPMF(プロダクト・マーケット・フィット)を検討するシード期のインキュベーションチームを支援する方法としてはかなり有効な気がします。

メンバー間の対話のスタンスや用語を統一するという意味で、本書の内容を共有しておくと、個々の協議のクオリティだけでなく、中長期的なチームのチカラもかなり変わってくるんじゃないかな。おススメです。

中田家と田中家の家事育児-苗字よろしく逆ベクトルの運営方針-

数日前にオリエンタルラジオの中田さんが、育児家事と仕事について、方針変更する話をされてましたね。

少なからず家事育児を担う者として、中田さんの取り組みはリスペクト、そして何となくライバル心(笑)をもって拝見していましたが、今回上記のような路線変更発言があり、ちょっと驚きました。連載どうするんでしょうか・・・とかそれはいらぬ心配かw

さて、記事の内容を読むと、中田家で起こっていた問題は、中田さんという子人の活動に対する期待値の問題なように思います。

例えば、中田さんが家族のためを思って家事育児をしているのに、相方が満足してくれない。そればかりか、さらにいろいろなタスクをこなすことを要求してくるというくだり。

あと、中田さんが帯びた”イクメン”というブランド(焼き印)の存在もあるのではないでしょうか。

中田さんはイクメンとしてのポジショニングをいろいろな努力を通じて構築してきたのだと思います。それが社会的にも認知され、「中田さん=イクメン」としてのブランドが引っ付いた。

そうなると、ブランドっていうのは不思議なもので、どこかのタイミングで、”このブランドはこうあらねばならない”という外からの圧力が強くなるんですよね。

中田さんはとてもまじめで優しい人なのだと思います。

”イクメン”というブランドを信じて寄せられる相方のリクエストや、「中田さんはイクメンであらねばならない」という社会の要請にも応えようとして、その結果、カウンセラーが言うように「全てを合わせてしまった」。そして、自分がやりたいことを出来ていないというストレスが蓄積されてしまったということなのではないでしょうか。

個人的には、中田さんが直面された事態には、私も結構頻繁に直面しています。

特に「労働時間を減らして家事育児への投入時間は増やせ、かつ、所得は前職退職時と同等以上にせよ」という相方の要求水準とか一緒で笑ったw

ちなみに僕はまだその状態に近づけるべく鋭意努力している段階ですけどもね・・・(苦笑)

なので、気持ちはわかるんです。「ああいいよ。じゃあもうやんねーよ」みたいな心理状態にも当然なります。

ただ、「良い夫をやめます」宣言はおそらくベストな打ち手ではないような感じもするんですよね。。。

期待値の問題なのであれば、期待値をコントロールする必要がある、というのがストレートな課題設定になると思います。

うちの場合は、同じような緊張状態に直面した場合には、限りある時間の中で、抱えているプロジェクトの要求水準と、相方が納得する給与水準(笑)を満たすためには一定時間を仕事に割かねばならず、それの残りでやれる家事育児をやるから、ここで手打ちにしようぜ、という話をするようにしています。

その時に、他の家庭の例も引き合いに出して、同じような繁忙度の家庭と比較しても、自分の家事育児への貢献は見劣りするものではない、ということも言い添えます。

そして、こういう緊張状態になるからには、自分も改めて普段当たり前と思っている相方の家事育児の活動を、当たり前と思わずにちゃんと「ありがとう」と伝えるようにする。そんな修正を心がけています。

相方の目には、どうしても家事育児の部分だけがよく映ってしまいますからね。在宅でリビングで終日仕事みたいなスタイルじゃない限り、仕事の部分はなかなか見えないものです。

そうなると、抱えているタスクの総量がわからない状態なわけで、厳密には家事育児の負担割合が少ないということは言えない。

でも往々にしてその認識が、イライラや体調不良などで霧消する。そんなとき、この緊張状態が再発してしまうんですよね。

だからこそ、いま自分が抱えている仕事の忙しさや状況、あと、それを自分がそんだけの時間と労力をかけてやる必要があると思っている理由なんかは、その都度相方に伝えておくことが重要なのかなと思います。

そこが共有できてなお、家事育児の負担が少ないというのであれば、仕事の効率をさらに高めるためにどうするか考えるなり、一時的に業務と家事のバランスを家事寄りにするなど、やりようがあるのではないでしょうか。

それに、夫婦そろって仕事に注力、家事は家政婦、育児はベビーシッター?なのかな。そうやって業務ごとに切り分けて、機能分化していくよりも、ある程度のカオスな状態を自分の生活の中に持っておくことは悪いことではないと思うんですよね。

個人的には、自分の中に多様性な経験やノウハウがまぜこぜになって、それがあるとき変な結合の仕方をしてアウトプットされることが面白い気がします。

仕事と洗濯系タスクが結びついたことはないけれど、料理なんかはわりかし結びつくことが多いです。

深夜バス多用して、移動時間と睡眠時間を重複させるとか、まさにそういう仕事と家事育児のバランスを取るところから生まれた苦肉の策ですけど、いまとなっては結構気に入っています(笑)

異なるアクティビティの間の結びつきをたくさん作るためには、ある程度、生活の中での自分の役割が多様だった方がいい気がするのです。

ま、そこは個人、家庭による違いがある気がします。うちはこんな感じで親子それぞれマルチロール・マルチタスクで、カオスの縁を歩むような家庭経営をしている感じです。

中田家は秩序の方向に。田中家は秩序とカオスの合間に、ということで、家庭運営方針は苗字よろしくベクトルが逆(笑)

中田家もいろいろ揺り戻しや行きつくとこまで行くとか、仮説と実践が繰り返される方が、連載的には紆余曲折があった方が面白いと思う(うがちすぎw)。

次回当たり、「落ち着くところに落ち着きました。これが中田家流。」みたいなエントリーがくるかもしれないですね。

【本】世界はもっと美しくなる

 エクセルシオールカフェで読んではいけない一冊だった…(涙)

奈良少年刑務所に収監されている人がつくった詩の詩集、読了です。いや、当たり前ですが、こういう本もあるんだなあと。

奈良少年刑務所で行われている「社会性涵養プログラム」の一環で行われている「物語の授業」で、受刑者がつくった詩が紹介されています。

視界がぼやけること二度三度、人前で涙するのは何とかこらえたものの、危なかった…苦笑

いまどき詩作かよ、という話かもしれませんが、このプログラムは刑務所で9年間も続けられていた(いた、というのは奈良少年刑務所は2017年で廃庁になったため)ことから、現場目線でも効果が認識されていたことがうかがえます。

9年も続いた理由は、編者の寮美千子氏が前書き部分で言及しているように、詩作と朗読によって、受刑者の心の扉が開いた後に彼らが持つやさしさが驚くほどに表れ出たからなのではないかと思います。
実際に紹介された作品も、他者との絆や、家族への感謝や愛情を扱ったものがたくさん出てきます。一方で、彼らが生きてきた日々がどれだけ過酷なものだったのかを吐露した作品も多く、複雑な気持ちになります。

罪を犯した人が犯した罪を悔い改めて償っていくことはもちろん重要なんだけれども、償うためには彼らが社会で生きていくことを許容する社会でなければならないわけです。
それに、彼らの作品を読んでいると、彼らをして犯罪に走らせたのは一体誰なのか、何なのか・・・

ちなみに、巻末に紹介されているプログラムの進め方は、ワークショップにおけるダイアログのセットアップ方法と驚くほどに類似していて、実務的な参照性も高いというすばらしい一冊となっております。おススメ。

(←画像クリックでAmazonに飛びます)

イノベーションのルーティン

『イノベーションの成否を分けるのは、単調な骨折り仕事をマスターできるかどうかだ。
創造のプロセスは通常は輝くようなアイデアから始まる。
このすばらしいアイデアに見込みがあれば、次にはビジネスの見地から見て進める価値があるかどうかを決定する。
このあたりは心躍る部分だ。知的には恐らく最も刺激的であろうが、同時に比較的容易な部分でもある。

続いて、そのアイデアを実行段階に引きおろすという現実的な仕事が来る。
これがイノベーションの中で最も単調な部分であり、人々に対するプレッシャーや鼓舞のほとんどはここで必要になる。

Diamond ハーバードビジネス 1990.7.』

そう。そうなんですよね。
イノベーションは飛躍、破壊的な新しい価値がすごいスピードで広がっていく、というイメージが持たれているんですが、実は中盤からルーティン作業が山のように現れてきて、そこに埋没しなければならない時が必ず来る。

イノベーションのイメージとは真逆の活動なんですけど、成功しているイノベーションチームは何のことはない、このフェイズですらすごいスピードでやり進め、はたから見たら飛躍的なスピードで成長してるように見えているだけなんですよね。

最澄とU理論

平安時代の仏教て、今の社会にとっての「科学」みたいな、非常に重要な位置づけだっただろうから、僧侶は超ざっくし言うと科学者みたいなもんだと思う。

そう考えると、さしずめ最澄と空海はジョブズとベゾスって感じでしょうか。それぞれすごいイノベーターだと思うわけです。

で、特に最澄について書かれた梅原猛氏の『最澄と空海』で読み進めていくと、最澄の人生はオットー・シャーマーのU理論の道筋に驚くほど当てはまるのが面白い。
“最澄とU理論” の続きを読む

ビュートゾルフの地域コーチ的な人が、子ども・若者支援地域協議会の進化には必要だよね、という話

前エントリーで紹介した、オランダの地域医療サービス事業者のビュートゾルフ

同社がオランダの地域医療に従事する看護師の3分の2を雇用するまでに発展できたのは、現場の看護師チームの裁量権の最大化と、それを実現するための仕組みにあると同社の取組みを紹介した「ティール組織」では紹介しています。

この「看護師チームの裁量権を最大化するための仕組み」の中で、「地域コーチ」という各チームを支援する人材の存在が紹介されています。

この地域コーチ、チームの上司でもマネージャーでもありません。

“ビュートゾルフの地域コーチ的な人が、子ども・若者支援地域協議会の進化には必要だよね、という話” の続きを読む

自分探しは恥ずかしい?これまでも今もこれからも?

って思うんですけど。どうなんですかね。

ネットとか、いや、リアルでも、自分探し中って口外している人で、かつ年齢的に20代後半とかの人はなんか「やっちゃってる人」「いたい人」みたいな感じで見られることが多いのではないかと思うのです。

かくいうタナカは、就職活動3回して最初の会社入りましたけど、その時点で自分のやりたい道?志?使命?みたいなものがちゃんとあったかというとはなはだ怪しい、というか無かったですね。

社会人というポジションには入り込んだけど、だからといって定まってた感じはない。それって自分探し中なのと何が違うんだろうか。

今だって、会社やめてなんとなくこういうことやっていきたいというのはあるけれど、じゃあそれが未来永劫自分の進むべき道を指し示す使命なのかと言われたら正直わからない。

あのスティーブジョブズだって、どっかの大学の卒業講演で(あ、これだこれ

「Connecting The Dots」

というキーワードでかっこよく話してますけど、あれなんて壮大な自分探しの話ですからね。

結果的に偉人になれたらそのプロセスは肯定され、そうじゃなければ否定されるなら、それは自分探しがハズいってことにはならない。

もしかするとうまい探し方、みたいな切り口はあるかもしれないですけどね。うまい時運探しの方法があって、それと対比して自分の自分探しの振る舞いはちょっと不味かったかな・・・みたいな。

これから先、今よりももっと世の中が流動化していった場合、「自分はこれで食っていくぜ!」みたいな拠り所がある日突然雲散霧消してびっくり・・・みたいなこともあるわけです。

そうなったときに、自分の道や志が変容したりしばしの間空白になったりもするでしょうし、そういうときの活動や思考って立派に自分探してると思うんですよね。

私自身も現在進行形でそんな感じなので、それでいいんじゃん?と思っていますが、周りの人でも「こんな歳で自分探ししてるわ自分・・・」とか感じている人も、それでいいんじゃない?と言ってあげたい。