茨城県精神保健福祉センター ひきこもり講演会

本日は、茨城県精神保健福祉センターのお招きで定期的に開催されている「ひきこもり講演会」にお邪魔してきました。

精神保健福祉センターは、精神保健の向上及び精神障害者の福祉の増進を図るための機関という位置づけの機関です。

業務内容は
地域住民の精神的健康の保持増進、精神障害の予防、適切な精神医療の推進から、社会復帰の促進、自立と社会経済活動への参加の促進のための援助に至るまで、非常に広い範囲が規定されています。

厚労省のサイトをみると、全国47都道府県+政令指定都市に設置されている機関ですね。

子ども・若者支援領域では、ひきこもりに関する相談窓口を持ってるところもあれば、発達障害に関する相談を引き受けていたり、施設によって対応できる業務は異なる印象を持っています(違っていたらすいません)。

今日は、当時者やそのご家族も結構いらっしゃるということで、普段は支援という観点でお話することが多い内容を、過去に当事者であった経験を軸にしてお話させていただきました。

といっても10年くらい前のことですし、ひきこもっていた期間でいうと半年間という比較的短い期間だったので、来ていたただいた方に何か持ち帰ってもらえるような話ができるかなと不安でした。

案の定事後アンケートを見ると、「長期間ひきこもり状態にある人とはちょっと違うなと感じました」というコメントもいただいたりして、やっぱりそうだよね、と納得。ただ、そういった方であっても何かしら「ふーん」と思ってもらえたならいいかな、と思います。

ありがたいことに、話をさせてもらった後には何人もの方から質問をいただきました。こういう場で質問がないと、「内容全然刺さってなかったんじゃないか・・・」と不安になるので、これだけ質問いただけるのはすごく嬉しいですよね。

質問の内容でハッとさせられることも多く、今日も、心理カウンセラーの方から

「ひきこもりから回復しつつあるときの価値観と、ある程度回復してからの価値観が違うように感じるのですが、どうなんでしょう?」

という質問をいただいて、確かに、ひきこもり状態から回復に至る段階では、自分がうまくできたこと、成功体験にフォーカスしていたけれど

いったん軌道に戻ってからは失敗にフォーカスしていたな、ということと気づいたりしました。

やはり問いかけは重要ですね。自問自答も重要だけど、他の方からいただく問いかけは自分の脳内に考えていないだけにより考えさせられることが多いです。

講演後は、元ひきこもりで茨城引きこもり大学を立ち上げられた大谷さんと話して、起業がらみの話で盛り上がったりと、いろいろとつながりがありそうな気がする茨城県でした。

少年院という学校、刑務所という福祉施設

前職卒業して、身体の半分くらいを子ども・若者の自立支援に関わる活動に投入してからというもの、少しずつですが、支援の現場に近いところで仕事ができるようになりました。

少年院に入っている少年に勉強を教えるというのもその一つ。


少年院というところ、普段生活していてなかなか目にすることも、耳にすることもない施設ですよね。

でも、実は都内にも何か所かあり、上記の記事はそのうち八王子にある多摩少年院に訪問したときのもの。

少年院で生活している少年たちと一緒に考えていて感じたことは、

「少年院に入ってない同年代の子とあんまりかわらないな…」

ということでした。

もちろん、珍しい外部の人に対して”余所行きの顔”をしているのかもしれないですけれど、正直自分が想像していたイメージよりずっと、おとなしいし、真面目だし、何かがわかったときの反応なんか、起業を目指す人が見せる表情とさして変わらないんですよね。

どーも僕らは、現実をあまり知らないようです。

よく考えたら、ニュースでも「事件が起こった」ということは盛んに報道するけれど、その後のこと(起訴されたのか、裁判でどのような判決が下ったのかなどなど)になると、急に情報量が減る気がする。

ましてや、刑務所に収監された後、少年院に入院した後のことまで追っかけている人は、関係者以外皆無なんじゃないだろうか。

ニワトリタマゴの話で、僕らも興味関心がないし、メディアも報道しない。

施設の存在は知っていても、そこにどんな生活があるのか、ということは誰も知らない

その最たるものが、刑務所や少年院といった矯正機関なのではないだろうか。

そんな問題意識が、なんとなーく頭の隅にひっかかりながら生活していたら、先日寄った荻窪のとんがった書店「Title」でみつけちゃったわけですこんな本。

なんすか、この敷居の低さを体現した表紙デザイン。

ユルい。ユルすぎる。仮にも犯罪者を収監する施設について書かれた書籍です。灰色とは言え、ハートはいかんでしょ。しかも、ハートで囲まれているキャラの罪のない佇まいもいけません。何がいけないって・・・そこは、よくわからないけども、とにかくマズいですよ・・・。

そんなデザインにまんまと手を伸ばし衝動買いの本の山の一冊に加える自分。LIBROの時と行動がかわってません。

読んでみます。むむむ。これです。無知の状態にある者だけが感得できる、空っぽの容器に勢いよく水がバシャーって注がれていくような、初期の知識充足の満足感。

これまで知らなかった刑務所の現状についての情報が、無知という脳内領域をみるみるうちに塗り替えていきます。

いくつか例を挙げると・・・

・2016年に刑務所に入った受刑者の約2割は知的障害のある可能性が高い

・最終学歴は中卒が最も多く40%、高卒が30%、大卒は5%。

・知的障害のある服役者で、収監された理由で最多のものは窃盗罪、次いで覚せい剤取締法違反、次が詐欺罪。文字だけだと凶悪なイメージだけど、内実はパンとかおにぎりを盗んだり、ダッシュボードに置いてあった30円を盗んで懲役、クスリの運び屋させられて懲役、無賃乗車、食い逃げ、オレオレ詐欺の出し子やらされて懲役、みたいなものも多い。しかもその理由はだいたい「生活苦」

・知的障害のある受刑者の服役は平均3.8回。65歳以上の知的障害のある服役者だと70%が「5回以上」

本当は高齢者の受刑者の話もしたいんだけど、ここでは障害を持つ受刑者のファクトのみを列挙してみた。

ここまでだけでも、既に自分が抱いているイメージとだいぶ違う。そして、一冊読み切ると、だいぶ違うどころか、ほぼ完全に自分のイメージが実態と違うことがわかる。

この本で問われていることは、刑務所に収監されている人は犯罪者なのか、被害者なのか、なんなのか?ということだと思うんですよね。

犯罪行為が社会的な制裁を受けるべき行為であることは間違いない。

でも、この本の中で紹介されている服役者は、加害者なんだろうか。犯罪者なのだろうか。

自分の行動をうまくコントロールできない。

うまく表現できない。

自分を見る人の目は初期状態からして疑いの目、得体のしれない者を見る目で見てくる。

生活は苦しい。

そんな状態で何かのきっかけでパニックになってとった行動で捕まり、裁判の場では意図せず裁判官の心証を悪くする言動をとってしまい、それが反省の色なしと取られてしまって懲役が決定してしまう。

感情のコントロールや表現方法が他の人とちょっと違うとわかる人がいれば

「まあそういう感じの人もいるよね」とフラットに見てくれる人がいれば

彼の生活の苦しさや孤立を解消できるような仕組みがあれば

多くの人が刑務所に収監されなかったかもしれない。

著者も

『障害のある人を理解するっていうのは、腫れ物のようにあつかうことでも、むやみに親切にすることでもない。自分と同じ目線で接し、彼らの立場になって考えてみることだ』

と言っているように、大事なのは、自分も相手も、それぞれ異なるということを前提にした上でのフラットな関係を作れるか、ということなのだと思う。

まあ、それが今の日本社会では難しいので、本書で紹介されているような、むしろ収監された方が困っている人にとっては幸せ、という歪んだ状況がうまれているのだろう。

生活苦と孤立というハードモードの世間に比べて、刑務所の生活の難易度の低さ。

屋根と壁のある生活。

食事は三食。

世間の人より理解のある看守。

累犯者が多い理由の一つは、世間と刑務所の「生きやすさの逆転現象」が起こっているからだったのだ。

刑務所に戻りたいから、出所した直後に万引きする老人の事例が紹介されているけれど、迎える社会の生きづらさが、彼等に罪を重ねさせる側面も確かにあるだろう。

そんな生きづらさを抱え、微罪に再び手を染めてしまった彼らは犯罪者なのだろうか。

間違いなく犯罪を犯した時点では犯罪者だ。でも、その前後の過程まで視野を広げてみると、彼は実は被害者だったのかもしれないとも思う。

点的には犯罪者、線的には被害者だ。

そして、彼らを取り巻く面としての社会は、もしかしたら加害者と言えるのかもしれない。

そう考えていくと、刑務所って、加害的な社会から障害を抱えた人や行き場を失った老人を匿う福祉施設のようにも思えてくるから不思議だ。悔い改め更生させる矯正施設とはなんか違う。。。

この本でも「刑務所の福祉化」という表現が使われているけれど、もはや実態として福祉施設に近いのかもしれない。

少年院に入ったときも、少年と24時間365日をともにして、少年の更生のために働く法務教官の方々の姿勢が印象的だった。少年院は矯正施設だけど、まぎれもなく教育施設だった。

刑務所は福祉施設で、少年院は教育施設。どういうこっちゃ。

どうも自分が持っている認識と実態はだいぶ違う。たぶんそんなことは世の中たくさんあるんだけど、一番実感できるのって、僕らの社会がいちばん目を背けてきた、矯正施設という領域なんじゃないか。自分は運よくそういう経験ができてる気がします。

ということで、ちょっと蓋開けてみてみませんか。

少年院なんかは定期的に見学会を開催していて、そちらもおススメですが、ちょっとハードル高いという人はまずこの本からどーぞ。

ちなみに、少年院に関する本でおすすめなのはこちら。

少し前に閉院した奈良少年院に在院していた少年たちがつくった詩の詩集です。冒頭のように、「彼らと施設の外で生活している同じ年齢の子たちと何が違うんだろう」と考えさせられる一冊です。

ひきこもりのレイヤー

名店池袋LIBROの店員さんが荻窪に開いた書店兼カフェ「Title」で衝動買いしたうちの一冊。

を読了。

(執筆時)38歳の著者は、ニートではない。同じような調整困難さを抱えた人が住めるシェアハウスを運営していて、ブロガーのようだ。

そして、本のタイトルにもある通り、ひきこもりってわけでもない。高速バスを駆って名古屋のサウナに蒸されに行ったり、何の変哲もない少し遠い町に降りて歩き回ったり、むしろかなりアクティブだ。

でも、他者とのコミュニケーションにどこか苦手意識を抱えていて、多くの人が普通に暮らしているスタイルで生活していくことに難しさを抱えている。満足を感じる行為や状況もちょっと変わっている(ことを本人も自覚している)。

”ひきこもり”って状態のことで、気質のことではない。

でも、少なからぬひきこもりの人が抱えているコミュニケーションや行動上の特徴を”ひきこもり気質”とあえて表現するなら、Pha氏は”ひきこもり気質のひきこもってない人”って感じ。

じゃあ他にどんなタイプがあるのかと考えてみると、

「①ひきこもり気質xひきこもり状態」

「②ひきこもり気質xひきこもり状態ではない」→Pha氏

「③ひきこもり気質ではないxひきこもり状態」

「④ひきこもり気質ではないxひきこもり状態ではない」

気質と状態でいわゆるマトリクス状に分類するとこうなるでしょうか。

3つ目は、普通の人でもブラック企業とかに身を置いて心が折れたらひきこもり状態になるようなパターン。

いや、こういうケース、決して少なくないですし、一度その状態になってしまうとなかなか社会につながりなおすことができない難しいケースも多いのです。決して珍しくない。

僕はどこだろうと思ったときに、たぶん象限としてはPha氏と同じなんだけど、若干④寄り、「④寄りの②」って感じでしょうかね。。。

というように、象限で4つに整理したとしても、各象限の中は無限にプロット可能だし、経時的に自分のポジショニングが揺らぐことも大いにあり得るわけです。

そんな無限の層、ポジショニング移行の可能性があるはずなのに、ちょと前までの日本社会って、「④とそれ以外」の2層で社会のタテマエを創っていたような気がする。①②③は見なかったことにする。あるいは負け組というレッテルを張って阻害する。

無限のレイヤーを「④とそれ以外」という2層に縮約するという編集の剛腕さ。ナベツネかよ!

もっとも、行政やNPOといった様々なプレイヤーが徐々に「それ以外」の解像度を高めてそれぞれの層にあったサービスを開発し始めているのも事実。そんな中で、Pha氏は自分で自分のポジショニングにマッチする環境を創っているのだと思う。

層の解像度を無限に近づけていけば、究極的には個々人の状態はそれぞれ違うので、社会が提供するサービスとの懸隔はどうしても生じてしまう。その開きは自分で距離詰めて、折り合いをつけなければならないのだと思う。Pha氏は少なくとも現段階での折り合い地点を見いだせているように読める。

Pha氏から見た社会、それに適応するための振舞いのある部分は自分もすごく共感する(高速バスが好きとか)。でも6割4分くらいは違うなと思う(夜行の高速バスが好きだし←そこじゃない)。

そこはPha氏よりも④寄りのポジショニングだからかな。私にも自分なりの折り合いのつけ方がある気がする。自分のそういう折り合いのつけ方ってあまり意識してなかったけど、結構面白いかもしれない。

皆さんも例えば、東京の喧噪やひっきりなしのコミュニケーションから逃れるためにどんなことをしているのか、ちょっと振り返ってみるとよいかも。で、Pha氏なり他の人の振舞いと比べてみたら、人それぞれ振舞いも理由も違って楽しいんじゃなかろうか。

事業開発における起点とその延長についてのお話

盟友 徳さんこと、料理人の栗山徳一君と羽田で別れました。

2日前の深夜にバスタ新宿で落ち合ってからだいたい48時間。

酒蔵見学という、日本酒が好きな人なら参加したいと思う、だけど、その前後のアクティビティがプアーであるがゆえに、なかなか実際には足が向かない。

たぶんこれは、本当はたくさんある魅力的な地域のリソースを、うまく配列できないことが問題なんだな。

ということで

これまた盟友 ハバタク社の小原君が偶然にも秋田県五城目町に居宅を持っていたということで、同町で素晴らしい日本酒を醸す福禄寿酒造に訪問する算段をつけ、同町で何百年も開かれ続けている朝市で仕入れた食材と訪問して興味を持っ銘柄を見学したその日の晩に、見学した人たちと飲む、というコンテンツの主軸を定めたのが秋ごろ。

そこから、その軸に接木する形で

男鹿半島や大潟村へのエクスカーションルートを決め、地方バス会社との調整を担ってくれるbusket社の 西木戸さんと連携して移動手段を確保

さらに不足分の布団のレンタル交渉をして、五城目町を拠点として活動するハバタク社の丑田君から情報をいただきながら参加者とリレーション構築して

そうして迎えた土曜日当日からさっきまでは怒涛の実行フェイズ。

構想フェイズから実行フェイズまで、時間が経つほど

個人がやりたいことをカタチにすることが容易な世の中になったな

という感覚を強く持つようになりました。

こんなコトやったら日本酒好きな人は楽しいと感じてくれるのではないか。

その銘柄が生まれた土地にもっと触れられて、味わいもまた変わってくるのではないか

と、思いたってから2ヶ月弱。

その2ヶ月で、面白いと思ってくれた人がフェイスブックで参加の意思表示をしてくれる。

Busket社や現地のなかなか取れない情報を教えてくださる。

やってみたらどーだろか!という思いが起点になって、みるみるうちに、コンテンツを纏った企画になる。

『他者や、サービスや商品との接続性が高まることで、個人の意思は際限なく具現化される。』

抽象度の高い表現を使えば、そういう”それっぽい”表現に落ちる。

だけど、今回はそれが実感として自分に落とし込まれた貴重な機会だったなーと思います。

そして、この経験を若者の自立支援や起業支援に逆流させるなら

「誰のインサイトなのか?」

という問いだけでなく

「そのインサイトに刺さるサービスを、貴方は開発したいのか?」

という問いもセットですることが大事、ということが示唆だな、という気がする。

二つの問いに「Yes」であるならば、それが自分がこれまで手を付けた領域とは違う場所であるとか、不確実性が高くても、子どものようにまず手を出せるような無邪気な人でありたいなと思います。

さてと、次回はどこの酒蔵とその土地を堪能しましょうかねえ・・・

「マイナスからゼロへの支援」と「ゼロからプラスへの支援」

今年は愛知県、徳島県に加え、岡山県のSVを拝命している田中です。本日は岡山県下の市町村の担当者の方々向けに、子ども若者支援地域協議会の説明をするということで、県北地域の中核地域である津山市にお邪魔してきました。

二か月くらい前に津山市の隣の勝央町に同じくSVとしてお邪魔したときは、横浜から津山まで深夜バスを使って早朝6時に到着するという、前入りするにも程があるだろ!という時間に来たのですが、今回は都合が合わず、飛行機で岡山県入り。

とはいえ、10時には津山市に到着し、午前中いっぱい津山城に登城して本丸曲輪で一人PCを開いて仕事をしたり、観光センターのレンタサイクルを借りてB級グルメで有名な橋野食堂でホルモン焼うどんを食べたりしてから会場にレンタサイクルでそのまま乗り付けてるという、もう県北エリア10回以上来てるので滞在の仕方も徐々にこなれてきた感じがします(笑)

今日の会の出席者は、県の担当者の方々、県北エリアの自治体の方々の他、内閣府の担当の方と、臨床心理士で内閣府の委員もお勤めの「コラボオフィス目黒」の植山先生主宰もご参加いただいての豪華なラインナップ。

内閣府からは政策的な動向とマクロ情報の提供、私からは各地の協議会の設置・運営状況のご紹介と設置のポイントの解説をしたうえで、植山先生からはモデルケースを利用したケース検討の練習を

県北地域では唯一協議会を設置している勝央町をはじめ、皆さん自地域で同様の相談があった場合にどのように対応していくかをご検討されていました。

検討された内容の発言を聞いていると、協議会を設置していない地域と設置済みの地域・民間組織(NPOやボランティア組織)とでケース検討のアプローチの仕方が異なっているようだったのが印象的でした。

未設置地域ではどちらかというと、「当事者の何が問題なのか」という点から支援を組み立てようとしているのに対して、設置済みの地域やNPOは「当事者あるいはその親の目指すゴールはどこにあるのか」ということにフォーカスしていました。

もっとも、この指摘の違いは、設置・未設置の違いというよりは、参加された方の所属によるのかもしれません。今回でいえば、どちらかというと福祉系の支援員の方が前者的な目線で、相談センターの相談員の方やNPOの方は後者という分けの方がしっくりくるような気もします。

私自身は、よく

当時者が抱えている問題を特定して、それを解消するような支援を「マイナスからゼロに引っ張り上げていく支援」

「自分なりの自立に向けてのゴール設定ができて、それに向かっていく過程をサポートするような支援は「ゼロからプラスにもっていく支援」

と表現しています。

この二つの支援はどちらがベターか、という話ではなく、どちらの視点も重要ということなのは言うまでもありません。

難しいのは、両タイプの支援をケースに応じてどのように配列させていくのがいいのか、というところにあると思っています。

ケースによっては、最初にどうありたいか、というところを一緒に描いて、それに向かって目下の問題をクリアしていくというアプローチがよいのかもしれない。

また別のケースでは、まずは抱えている問題をじっくり解きほぐしてあげるのがよいのかもしれない。

ケースによって「ー→0」「0→+」の支援をどのタイミングでどのように示していくのかベターかという判断は異なります。それを考えるのが総合相談センターであり、協議会の検討の場でもあります。

また、そういった柔軟な支援を構築するためには、地域における支援リソースが多様であること、相互につながりうるだけの関係ができていることが重要ということもいえると思います。

ケース検討の最後に、勝央町で長年相談窓口の相談員をやられている方が、支援のスタンスについて

「焦らずに、長期的な対応をひとつところで抱えるのではなく、たくさんの関係機関が一緒に支援について考えていくことが重要」

と仰っておられましたが、現場のご経験としても、様々な機関があることで示せる支援の可能性の広さを意識されてのご発言だったのではないかと思うわけです。

地域において

「-→0」「0→+」の支援を担保できていること

両タイプの支援の多様はどのくらいか

支援リソース同士のつながりはどうか

そういった視点を持っておくことが、地域で支援できることを考えていく上で重要なのではないでしょうか。

コレクティブ・インパクトと子ども・若者支援

コレクティブインパクト

この言葉を日本で聞くことは稀です。

それこそ「育て上げ」ネットの工藤さんが口にするのを聞くくらいなもんなのですが、米国生まれのこの考え方を日本語に訳すと

「複数の異なる組織が、ある社会課題を解決するために、個々の組織の壁を超えて協働し、課題解決というインパクトをもたらす」

という考え方のこと。

2011年にMark Kramaer氏とJohn Kania氏が「Stanford Social Innovation Review」という雑誌に寄稿したのが最初だと言われています。→SSIRの論文は無料で閲覧可能(英語)

ちなみに両氏ともに、ソーシャルインパクトを専門とする世界的コンサルティング企業のファウンデーション・ストラテジー・グループ(FSG)のメンバー。

この考え方は、単一の、あるいは限定された領域のプレイヤーの参画だけでは解決ができない(超時間がかかる)ような社会的課題の解決に対する一つの処方箋になると上記の論文の中で紹介されています。

例えば、子ども・若者支援であっても、困難に直面する当事者を発見してから何らかの形で自立できる状態に持っていくためには、行政のどこか特定の部署の活動だけでは難しいですし、NPOだけでも難しい。

また、行政やNPOのような非営利のプレイヤーだけで可能かと言われると、それも難しい。例えば、就労が絡んでくるようなケースにおいては、多少なりとも企業やビジネスサイドの理解と協力が必要になってくるわけです。

理想的にはそれらのプレイヤーが協働して目的(この場合は当事者の自立)を達成し、かつ、各プレイヤーにとって参画したメリットを享受できるようにすればよいのですが、まあそれが簡単にできればSSIRやHBRでこの考え方や、方法論が示される必要もないわけです。そう。実際には、とても難しい。

SSIRの論文では、実際にコレクティブインパクトを生み出すためのポイントとして、

  1. 共通のアジェンダ
  2. 共通の評価システム
  3. 相互に補強しあう活動
  4. 定期的なコミュニケーション
  5. 活動に特化した「支柱」となるサポート

が必要とされています(文言はSSIRよりも後に執筆されたHBR(文末で紹介)のものを記載)。

簡単に言うと

  1. 多様なプレーヤーが受け入れ可能で参画したいと思う共通目標を設定して
  2. その目標が達成できたと誰もが理解できるゴール指標やKPI(Key performance indicator:達成度を評価するための指標)を設定して
  3. 各プレーヤの強みを掛け合わせて
  4. 定期的にコミュニケーションする機会を創り
  5. そういった様々な活動を支える縁の下の力持ち的な存在を用意しようね

ってことなんですが、これ、現場感覚からするとかなりハードル高くて苦笑が漏れるレベル。「いや、そうなんだけど、それができないから困ってんのよ」という声なき声が聞こえてくるようです。

いろいろな自治体と子ども・若者支援地域協議会の設置・運営について協働している経験からすれば、まず共通のアジェンダセットする前に、プレーヤー間の信頼関係が無いことが多い。そんな相手と夢を語るとか夢のまた夢。

特に、非営利団体から見たときの営利団体(一般企業)に対するスタンスが懐疑的すぎる。「どうせ儲けるためにやってるんでしょ。自分たちとは違う原理で動いてるからわかりあえないよね~」と距離を置いていることも多い。

非営利の人は給料もらってるし、営利は利潤を還元するならそれはフェアな気もするんですけどね。

仮に底の部分がクリアできたとしても、今度は企業内部で、その活動の投資対効果があるのかという「投資の正当化」についての説明がクリアできなければならない。

1~5のポイントに到達する前に、まあ結構な超えなければならない山々が青々と連なってるわけです。初夏の穂高なら気持ちがいいんですが、仕事の場面でこの風景はかなりエグいかもしれません。

とはいえ、それが一度動き出せば、これまでに各プレーヤーが見たこともない風景が広がっている可能性も十分にある。ハイリスク・ハイリターンの商品でしょうか。金融商品的な「分け」で言えば。

個人的には、冒頭で引き合いに出した、子ども・若者領域はまさにこのコレクティブインパクトの考え方が必要だと思います。

特にリソースが限られている地方においては、営利・非営利の枠や、公共・民間の壁をつくってる場合ではないと思います。地域の若者のためにできることをやる、という意思のあるプレーヤーが広く参加できる(自由に参加できるという意味ではなく)場を創っていくことが非常に重要なのではないかと思います。

コレクティブインパクトの事例については、今後ちょいちょいご紹介していければなと思っています。

ちなみにハーバードビジネスレビューの2017年2月号でコレクティブインパクトを取り上げた記事はAmazonでKindle版を購入可能。SSIRの内容と比較して、キープレーヤーである企業のポジショニングについての示唆や事例が更新されています。

 

ニートが管理職になる会社 デジタルハーツ

昨日の研修会で参加者の方からいただいた質問のひとつに「ニートでも職につけるのか?」というものがありました。

結論からいうと、全然就職できます。

元ひきこもりの自分でも就職できてますし、周りにもニート状態から学校に戻ったり、就職した人はいくらでもいます。

会社レベルでも最近は発達障害を持っている人や、元ニート・ひきこもり状態にあった人を積極的に雇用しているところは結構出てきました。

中でも有名な会社を上げるとすれば、ゲームのデバッグ、特にバグ(不具合)の発見を行っているデジタルハーツ社がありますね。

詳細は、ひきこもりやニートの方についての篤い記事を精力的に描き続けておられる池上正樹さんの記事をご参照いただければ、よりご理解いただけるのではないかと思います。

※2ページ目からは会員登録が必要。

同じ状態なのに、一方では自室に閉じこもらざるを得ない。

もう一方では、頼れる戦力として位置づけられ、本人もその期待に応えて活躍している

こういう会社の取り組みを拝見していると、結局のところ、ニートやひきこもり状態にある人を、そもそもその状態に追いやっているのは本人ではなく、周囲の環境や、当事者を取り巻く社会の側にあるのではないかと改めて思います。

ニート・ひきこもりという”状態”を見て、社会に出ていくのが難しいだろうな、という判断をまずは留保して

当事者自身を理解し、それをベースにやれることを一緒に見つけていく、という姿勢が支援者側のマインドセットとして非常に重要になっていくのではないでしょうか。

また、やれることの引き出しは、支援者一人では限りがあるので、そういったときに考えられるチームや場があれば、より可能性が広がるのではないかと思います。

NPOと行政のかみ合わなさの原因は何かを考える

子ども・若者支援の領域では、行政とNPOのような民間組織が連携していくことが重要なわけですが、これが言うは易し行うは難しということが多い。

一番多いのは、NPOから見て行政サービスのカバレッジが不十分でターゲットにドンピシャのサービスが提供できない、というもの。

NPOの方は自分たちの目の前にいる当事者をサポートするために日々貢献してらっしゃる。

それなのに、行政の対応やアクションは、そもそも誰を相手にしているのかも曖昧だし、アクションもぬるいじゃないかという指摘を聞くことも多いんですよね。

どちらも、地域の当事者を支えるために考えているという点では一緒なのに、なぜこのようなコンフリクト(衝突)が生まれているのだろうか?

激しさのレベルは様々ですが、そんな両者の衝突の場面に居合わせる度、その帰りの電車の中で考えてました。

そんなときに、最近、元厚労省事務次官の村木厚子さんの『日本型組織の病を考える』という本を読んだんですね。

その中で村木さんが書かれている公務員の仕事についての表現を読んで、なんかわかったきがしたんです。その部分を要約すると、こんな感じになるかな。

「公務員の仕事というのは、提供するサービスの充実を考えなければいけない一方で、国民の負担を重くしないようなバランスを取らないといけない。そうすると、結果的に出来上がるのは全員が満足するものにはならない。でも、なるべく多くの人が受け入れてくれる現実的な制度をつくらなければならない。」

僕は、NPOと行政の仕事の違いは、ここんとこに端を発してるような気がするんですよね。

行政が子ども・若者支援の施策を考えようとするときに、ある程度施策の対象者は絞り込まれている。でも、その財源は広く市民・国民が負担する税金で賄われている。

また、特定の団体向けに設える制度であってはならず、汎用性のある制度設計であることが求められる。

そうなってくると、行政が打ち出すアクションは誰もが100点満点をつけられないサービスになることが多くなるわけです。

サービス利用者や施策のパートナーにとっては十分に満足のいく内容ではないという印象を持たれることも当然あるでしょう。でも、それは行政サービスという性質上、ある意味宿命といえる性質なのではないかなと思うんですよね。

もちろん、行政の人は、誰もが100点といわず、高得点をつけてくれるような施策の可能性を追求し続けなければいけない。

でも、NPOや生活者の側も、行政サービスがそもそもそういう性質を帯びていることを理解することが重要なのではないかと思うわけです。

ほら、子ども・若者やその家族といった当事者を支援するときには、みなさん相手の理解が重要って力説してるじゃないですか。

それと一緒で、事業のパートナーである行政に対しても、その視点を遺憾なく発揮すればよくない?と思うんですよね。

カスタマーだけでなく、事業パートナーに対しても、まずは理解ファーストでいきましょ。

そうすれば不要なコンフリクトもなく、提携できるところと難しいところが明白になるし、できなければ他の方法で資金調達と事業展開しなきゃな、って思考になるのではないかと思うのです。

ミッションは同じだけど違うプレイヤーと協業するときの基本スタンスはこうでありたいですよね。

孤独と孤立の違い~子ども・若者支援の目的~

子ども・若者やそのご家族を支援していくときに大事なことのひとつは、

「そもそも支援、何のためにするんだっけ?」

ということを明確化し、保持することだと思います。

この「なんのために」というところ、大きな目的としては、そんなに諸説でるわけではないと思うんですね。

“孤独と孤立の違い~子ども・若者支援の目的~” の続きを読む

刈谷市で子ども・若者支援地域フォーラムが開催

愛知県刈谷市で子若支援の関係者や当事者およびその家族が集まって情報交換をしたりつながったりすることを目的としたフォーラムが開催されたみたいですね。

私も過去に、子若協議会を設置した自治体の担当者の方々と一緒に同様のフォーラムを開催してきましたが、気軽に関係者同士がつながれる場を設けることは、子若支援のネットワークを構築していく上でかなり重要なことだと思っています。

刈谷市のフォーラムでは、当事者の方の参加もOKとしている点で、サービス利用者側のニーズや感想を直接支援サイドが把握する良い機会になったのではないでしょうか。

子若協議会の定期的なイベントとして、年1回開催くらいの頻度でやってもよいのではないでしょうか。