困難に直面したときのメンタリティ

前回のエントリーで、失敗経験を積むことで得られることについて自分の過去や考えをちょっとご紹介しました。

そしたら東洋経済がこんな記事をUPしてまして、扱っている内容の類似性から読み込んでしまいました。

僕はあまりヒロミ氏が出演している番組を視聴したことがないのですが、印象としては、他の出演者との距離感の取り方が特徴的だな、とは思ってました。

それと、いくら番組で見る機会が少ないとはいえ、全然番組に出ていないな、ということも何となく思っていた気がする。この記事を見ていると実際に出演機会が極度に減っていた時期があったみたいですね。

そのときの気づきや学びとして書かれている内容が、いい意味で力が入ってない。自然体な感じで共感しました。

仕事も100%、120%。バランスを取るために遊びも120%でやってきたけれど、どこかで疲れてしまう。通常は80%でよい。それを自分にもあてはめるし、他人が80%でやっていることも許容する。それが長い人生を楽しむために必要なスタンス。

起業家の人や、起業することを目標にしている人の一部の人には、この120%系の人が多い気がします。起業界隈以外でも、職場の同僚や上司にもいますが。

個人的にはそれってどうなんだろうと思うわけです。

まず永続性が無い。120%系の人の、「血を吐いても120%であれ」みたいな主張、たぶん120%でやったら10年持たないですよね。健康な心身な人でもたぶん5年くらいでボロボロになると思う。

それなら80%で長くやった方が中長期的にみたらバリューでるんじゃないかなー。社会的なインパクトは残せるんじゃないかんーと思うわけです。

1年に120の仕事をして10年で燃え尽きる場合と

1年に80の仕事をして20年続いてる場合

すごいラフに比べると、120x10=1200と80x20=1600で、後者の方がいい仕事してるって言えるんじゃないの

起業の世界は、スタートアップの世界はスピードが命!という指摘があるのはわかるけど、80%でもスタートアップとしてやれる方法を考えるのがスマートなのでは?とか思ってしまう。

あと、ぶっちゃけ思うのは、120%って嘘でしょ。。。うわー身も蓋もない。。。

絶対、家庭の要素とか、煩悩とか、脳みそに入ってくるんです。人間だから。そういうのが自分の思考に入ってくるのをを許容した時点で、「仕事120%!」なんて言えなくないですか?

いやいや、家庭も、煩悩もすべては120%のためなんだ、とか本当に言える?それ、まじで言ってます?僕はちょっと信じられないですけどね。

家族といるときも脳みそ完全に仕事のこと、うまいめしたべてるときも、ちょっと快楽におぼれちゃってるときも完全に脳みそ仕事のことしか考えてないとか、ないでしょ。いや、だったら仕事しろよと、なるでしょw

もう点滴で栄養うってさ、トイレとかにも意識飛ばしたくないから尿瓶活用でつねに仕事してる人いたら信じますけど。いないでしょそんなひと。いうなれば合理的経済人なみの空想的存在ですよ

だからヒロミ氏が振り返って120%ってのも多分ちょっと盛ってるんですけど、でも大事なことは、

「失敗した~」とか「疲れた~」みたいなネガティブな状態になったときのリスタートの仕方が

「いやいや俺はこんなもんじゃねえ」みたいな筋肉質な反応じゃなくてさ

「失敗したけどまあぼちぼちやれるところから~」とか「疲れたからちょっと休むのもありか~」みたいないったん衝撃吸収して凹んで緩やかに元に戻るような感じの方が長い目で見たらいいんじゃないの?ってことだと思うんですよね。

そこが、先日の失敗の蓄積ができた人のスタンスに似てる気がする。

あのときに比べればまだましか~

みたいな、負の状態を受け止めて、受け止めてちょっと「ううっ・・・重っ」てなってる状態からスタートする。そんな考え方や動き方って結構重要なんじゃないかと思うわけです

茨城県精神保健福祉センター ひきこもり講演会

本日は、茨城県精神保健福祉センターのお招きで定期的に開催されている「ひきこもり講演会」にお邪魔してきました。

精神保健福祉センターは、精神保健の向上及び精神障害者の福祉の増進を図るための機関という位置づけの機関です。

業務内容は
地域住民の精神的健康の保持増進、精神障害の予防、適切な精神医療の推進から、社会復帰の促進、自立と社会経済活動への参加の促進のための援助に至るまで、非常に広い範囲が規定されています。

厚労省のサイトをみると、全国47都道府県+政令指定都市に設置されている機関ですね。

子ども・若者支援領域では、ひきこもりに関する相談窓口を持ってるところもあれば、発達障害に関する相談を引き受けていたり、施設によって対応できる業務は異なる印象を持っています(違っていたらすいません)。

今日は、当時者やそのご家族も結構いらっしゃるということで、普段は支援という観点でお話することが多い内容を、過去に当事者であった経験を軸にしてお話させていただきました。

といっても10年くらい前のことですし、ひきこもっていた期間でいうと半年間という比較的短い期間だったので、来ていたただいた方に何か持ち帰ってもらえるような話ができるかなと不安でした。

案の定事後アンケートを見ると、「長期間ひきこもり状態にある人とはちょっと違うなと感じました」というコメントもいただいたりして、やっぱりそうだよね、と納得。ただ、そういった方であっても何かしら「ふーん」と思ってもらえたならいいかな、と思います。

ありがたいことに、話をさせてもらった後には何人もの方から質問をいただきました。こういう場で質問がないと、「内容全然刺さってなかったんじゃないか・・・」と不安になるので、これだけ質問いただけるのはすごく嬉しいですよね。

質問の内容でハッとさせられることも多く、今日も、心理カウンセラーの方から

「ひきこもりから回復しつつあるときの価値観と、ある程度回復してからの価値観が違うように感じるのですが、どうなんでしょう?」

という質問をいただいて、確かに、ひきこもり状態から回復に至る段階では、自分がうまくできたこと、成功体験にフォーカスしていたけれど

いったん軌道に戻ってからは失敗にフォーカスしていたな、ということと気づいたりしました。

やはり問いかけは重要ですね。自問自答も重要だけど、他の方からいただく問いかけは自分の脳内に考えていないだけにより考えさせられることが多いです。

講演後は、元ひきこもりで茨城引きこもり大学を立ち上げられた大谷さんと話して、起業がらみの話で盛り上がったりと、いろいろとつながりがありそうな気がする茨城県でした。

ひきこもりのレイヤー

名店池袋LIBROの店員さんが荻窪に開いた書店兼カフェ「Title」で衝動買いしたうちの一冊。

を読了。

(執筆時)38歳の著者は、ニートではない。同じような調整困難さを抱えた人が住めるシェアハウスを運営していて、ブロガーのようだ。

そして、本のタイトルにもある通り、ひきこもりってわけでもない。高速バスを駆って名古屋のサウナに蒸されに行ったり、何の変哲もない少し遠い町に降りて歩き回ったり、むしろかなりアクティブだ。

でも、他者とのコミュニケーションにどこか苦手意識を抱えていて、多くの人が普通に暮らしているスタイルで生活していくことに難しさを抱えている。満足を感じる行為や状況もちょっと変わっている(ことを本人も自覚している)。

”ひきこもり”って状態のことで、気質のことではない。

でも、少なからぬひきこもりの人が抱えているコミュニケーションや行動上の特徴を”ひきこもり気質”とあえて表現するなら、Pha氏は”ひきこもり気質のひきこもってない人”って感じ。

じゃあ他にどんなタイプがあるのかと考えてみると、

「①ひきこもり気質xひきこもり状態」

「②ひきこもり気質xひきこもり状態ではない」→Pha氏

「③ひきこもり気質ではないxひきこもり状態」

「④ひきこもり気質ではないxひきこもり状態ではない」

気質と状態でいわゆるマトリクス状に分類するとこうなるでしょうか。

3つ目は、普通の人でもブラック企業とかに身を置いて心が折れたらひきこもり状態になるようなパターン。

いや、こういうケース、決して少なくないですし、一度その状態になってしまうとなかなか社会につながりなおすことができない難しいケースも多いのです。決して珍しくない。

僕はどこだろうと思ったときに、たぶん象限としてはPha氏と同じなんだけど、若干④寄り、「④寄りの②」って感じでしょうかね。。。

というように、象限で4つに整理したとしても、各象限の中は無限にプロット可能だし、経時的に自分のポジショニングが揺らぐことも大いにあり得るわけです。

そんな無限の層、ポジショニング移行の可能性があるはずなのに、ちょと前までの日本社会って、「④とそれ以外」の2層で社会のタテマエを創っていたような気がする。①②③は見なかったことにする。あるいは負け組というレッテルを張って阻害する。

無限のレイヤーを「④とそれ以外」という2層に縮約するという編集の剛腕さ。ナベツネかよ!

もっとも、行政やNPOといった様々なプレイヤーが徐々に「それ以外」の解像度を高めてそれぞれの層にあったサービスを開発し始めているのも事実。そんな中で、Pha氏は自分で自分のポジショニングにマッチする環境を創っているのだと思う。

層の解像度を無限に近づけていけば、究極的には個々人の状態はそれぞれ違うので、社会が提供するサービスとの懸隔はどうしても生じてしまう。その開きは自分で距離詰めて、折り合いをつけなければならないのだと思う。Pha氏は少なくとも現段階での折り合い地点を見いだせているように読める。

Pha氏から見た社会、それに適応するための振舞いのある部分は自分もすごく共感する(高速バスが好きとか)。でも6割4分くらいは違うなと思う(夜行の高速バスが好きだし←そこじゃない)。

そこはPha氏よりも④寄りのポジショニングだからかな。私にも自分なりの折り合いのつけ方がある気がする。自分のそういう折り合いのつけ方ってあまり意識してなかったけど、結構面白いかもしれない。

皆さんも例えば、東京の喧噪やひっきりなしのコミュニケーションから逃れるためにどんなことをしているのか、ちょっと振り返ってみるとよいかも。で、Pha氏なり他の人の振舞いと比べてみたら、人それぞれ振舞いも理由も違って楽しいんじゃなかろうか。

「マイナスからゼロへの支援」と「ゼロからプラスへの支援」

今年は愛知県、徳島県に加え、岡山県のSVを拝命している田中です。本日は岡山県下の市町村の担当者の方々向けに、子ども若者支援地域協議会の説明をするということで、県北地域の中核地域である津山市にお邪魔してきました。

二か月くらい前に津山市の隣の勝央町に同じくSVとしてお邪魔したときは、横浜から津山まで深夜バスを使って早朝6時に到着するという、前入りするにも程があるだろ!という時間に来たのですが、今回は都合が合わず、飛行機で岡山県入り。

とはいえ、10時には津山市に到着し、午前中いっぱい津山城に登城して本丸曲輪で一人PCを開いて仕事をしたり、観光センターのレンタサイクルを借りてB級グルメで有名な橋野食堂でホルモン焼うどんを食べたりしてから会場にレンタサイクルでそのまま乗り付けてるという、もう県北エリア10回以上来てるので滞在の仕方も徐々にこなれてきた感じがします(笑)

今日の会の出席者は、県の担当者の方々、県北エリアの自治体の方々の他、内閣府の担当の方と、臨床心理士で内閣府の委員もお勤めの「コラボオフィス目黒」の植山先生主宰もご参加いただいての豪華なラインナップ。

内閣府からは政策的な動向とマクロ情報の提供、私からは各地の協議会の設置・運営状況のご紹介と設置のポイントの解説をしたうえで、植山先生からはモデルケースを利用したケース検討の練習を

県北地域では唯一協議会を設置している勝央町をはじめ、皆さん自地域で同様の相談があった場合にどのように対応していくかをご検討されていました。

検討された内容の発言を聞いていると、協議会を設置していない地域と設置済みの地域・民間組織(NPOやボランティア組織)とでケース検討のアプローチの仕方が異なっているようだったのが印象的でした。

未設置地域ではどちらかというと、「当事者の何が問題なのか」という点から支援を組み立てようとしているのに対して、設置済みの地域やNPOは「当事者あるいはその親の目指すゴールはどこにあるのか」ということにフォーカスしていました。

もっとも、この指摘の違いは、設置・未設置の違いというよりは、参加された方の所属によるのかもしれません。今回でいえば、どちらかというと福祉系の支援員の方が前者的な目線で、相談センターの相談員の方やNPOの方は後者という分けの方がしっくりくるような気もします。

私自身は、よく

当時者が抱えている問題を特定して、それを解消するような支援を「マイナスからゼロに引っ張り上げていく支援」

「自分なりの自立に向けてのゴール設定ができて、それに向かっていく過程をサポートするような支援は「ゼロからプラスにもっていく支援」

と表現しています。

この二つの支援はどちらがベターか、という話ではなく、どちらの視点も重要ということなのは言うまでもありません。

難しいのは、両タイプの支援をケースに応じてどのように配列させていくのがいいのか、というところにあると思っています。

ケースによっては、最初にどうありたいか、というところを一緒に描いて、それに向かって目下の問題をクリアしていくというアプローチがよいのかもしれない。

また別のケースでは、まずは抱えている問題をじっくり解きほぐしてあげるのがよいのかもしれない。

ケースによって「ー→0」「0→+」の支援をどのタイミングでどのように示していくのかベターかという判断は異なります。それを考えるのが総合相談センターであり、協議会の検討の場でもあります。

また、そういった柔軟な支援を構築するためには、地域における支援リソースが多様であること、相互につながりうるだけの関係ができていることが重要ということもいえると思います。

ケース検討の最後に、勝央町で長年相談窓口の相談員をやられている方が、支援のスタンスについて

「焦らずに、長期的な対応をひとつところで抱えるのではなく、たくさんの関係機関が一緒に支援について考えていくことが重要」

と仰っておられましたが、現場のご経験としても、様々な機関があることで示せる支援の可能性の広さを意識されてのご発言だったのではないかと思うわけです。

地域において

「-→0」「0→+」の支援を担保できていること

両タイプの支援の多様はどのくらいか

支援リソース同士のつながりはどうか

そういった視点を持っておくことが、地域で支援できることを考えていく上で重要なのではないでしょうか。

ニートが管理職になる会社 デジタルハーツ

昨日の研修会で参加者の方からいただいた質問のひとつに「ニートでも職につけるのか?」というものがありました。

結論からいうと、全然就職できます。

元ひきこもりの自分でも就職できてますし、周りにもニート状態から学校に戻ったり、就職した人はいくらでもいます。

会社レベルでも最近は発達障害を持っている人や、元ニート・ひきこもり状態にあった人を積極的に雇用しているところは結構出てきました。

中でも有名な会社を上げるとすれば、ゲームのデバッグ、特にバグ(不具合)の発見を行っているデジタルハーツ社がありますね。

詳細は、ひきこもりやニートの方についての篤い記事を精力的に描き続けておられる池上正樹さんの記事をご参照いただければ、よりご理解いただけるのではないかと思います。

※2ページ目からは会員登録が必要。

同じ状態なのに、一方では自室に閉じこもらざるを得ない。

もう一方では、頼れる戦力として位置づけられ、本人もその期待に応えて活躍している

こういう会社の取り組みを拝見していると、結局のところ、ニートやひきこもり状態にある人を、そもそもその状態に追いやっているのは本人ではなく、周囲の環境や、当事者を取り巻く社会の側にあるのではないかと改めて思います。

ニート・ひきこもりという”状態”を見て、社会に出ていくのが難しいだろうな、という判断をまずは留保して

当事者自身を理解し、それをベースにやれることを一緒に見つけていく、という姿勢が支援者側のマインドセットとして非常に重要になっていくのではないでしょうか。

また、やれることの引き出しは、支援者一人では限りがあるので、そういったときに考えられるチームや場があれば、より可能性が広がるのではないかと思います。

生活保護と持ち家

昨日の研修会の参加者から、「持ち家があると、生活保護を受けられないのではないか」という質問をいただきました。

結論から言うと、そんなことはありません。

大元締めの厚労省の資料にはこんな感じで言及があります。

基本的な考え方として、売却が原則。

被保護世帯の居住の用に供される家屋及びそれに付属する土地については、保有を容認し、保護を適用。

ただし、処分価値が所有価値に比して著しく大きいと認められる場合には、売却等による資産の活用をした上で、保護の要否を判断

一つ目の項目を見たら「やっぱり売却か・・・」と読めるわけですが、二つ目の項目をよく読んでみると、住むために必要なら保有してもよい、ということなんですね。

ただ、売却したら高額で売れて資産形成できるなら売却してもらうよ、ということのようです。ざっくり言うと。

さすがに生活保護の制度も鬼ではないということですね。

引きこもり状態が長期化した場合、少しずつ支援の方法は減っていきます。

その最後の砦として生活保護制度があるわけですが、その内容は複雑で経時的に変容する可能性もあり、担当の方でない限りすべてを把握しておくことは困難だと思います。

そのようなときに、たとえば子ども・若者支援地域協議会で、生活保護制度の理解を高めるためのレクチャーを担当者にお願いしてもらったり、ケースを扱う際に生活保護受給の可能性について意見をもらうといったことが、制度理解や連携促進のためには重要なのではないでしょうか。

時に風当たりの強い生活保護制度ですが、この制度が必要な家族は確実に存在します。チーム全体で理解度を高め、必要としている人に制度を適用していきたいですね。

孤独と孤立の違い~子ども・若者支援の目的~

子ども・若者やそのご家族を支援していくときに大事なことのひとつは、

「そもそも支援、何のためにするんだっけ?」

ということを明確化し、保持することだと思います。

この「なんのために」というところ、大きな目的としては、そんなに諸説でるわけではないと思うんですね。

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リリー・フランキー氏のひきこもり経験から感じたこと

最近、是枝監督の「万引き家族」を観てきました。観た後に「問い」が残る映画は良い作品というのが僕の持論ですが、そういう点でいうと、本作はとても素晴らしい作品だったと思う。

この作品の中で父親(?)役をつとめたのがリリー・フランキーさんなんだけど、最近「ひきこもり新聞」の抜粋で、リリーさんとひきこもり当事者との対談記事が出ていました。

リリーさんご自身がひきこもりだったとは知りませんでした。文中でリリーさんがひきこもっていた当時の状況を振り返って話す内容で、個人的に共感できる部分がたくさんあります。

以下、抜粋しながら自分が共感した事柄を紹介してみたいと思います “リリー・フランキー氏のひきこもり経験から感じたこと” の続きを読む

【本】世界はもっと美しくなる

 エクセルシオールカフェで読んではいけない一冊だった…(涙)

奈良少年刑務所に収監されている人がつくった詩の詩集、読了です。いや、当たり前ですが、こういう本もあるんだなあと。

奈良少年刑務所で行われている「社会性涵養プログラム」の一環で行われている「物語の授業」で、受刑者がつくった詩が紹介されています。

視界がぼやけること二度三度、人前で涙するのは何とかこらえたものの、危なかった…苦笑

いまどき詩作かよ、という話かもしれませんが、このプログラムは刑務所で9年間も続けられていた(いた、というのは奈良少年刑務所は2017年で廃庁になったため)ことから、現場目線でも効果が認識されていたことがうかがえます。

9年も続いた理由は、編者の寮美千子氏が前書き部分で言及しているように、詩作と朗読によって、受刑者の心の扉が開いた後に彼らが持つやさしさが驚くほどに表れ出たからなのではないかと思います。
実際に紹介された作品も、他者との絆や、家族への感謝や愛情を扱ったものがたくさん出てきます。一方で、彼らが生きてきた日々がどれだけ過酷なものだったのかを吐露した作品も多く、複雑な気持ちになります。

罪を犯した人が犯した罪を悔い改めて償っていくことはもちろん重要なんだけれども、償うためには彼らが社会で生きていくことを許容する社会でなければならないわけです。
それに、彼らの作品を読んでいると、彼らをして犯罪に走らせたのは一体誰なのか、何なのか・・・

ちなみに、巻末に紹介されているプログラムの進め方は、ワークショップにおけるダイアログのセットアップ方法と驚くほどに類似していて、実務的な参照性も高いというすばらしい一冊となっております。おススメ。

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【本】少年院のかたち

『殺人をやって「自分が死ねばいいですから」という少年もいます。「死んだら簡単だよ」と叱ります。
「被害者は苦しいよな。おまえも苦しめよ。なにを苦しむんだ?」
「償いと簡単に言うな」
「ここにいる時は俺も一緒に背負う。だけど社会に出たら、おまえはどう背負う」
それらしい謝罪と作文で終わり、というわけにはいきません。
それもやらないと法務教官じゃないですからね。』

いまお手伝いしている仕事のうちの一つが、少年院に関わるものなのですが、そもそも少年院ってどんなところなのか、そこに入院している少年はどういう人なのか、さらには、そこで矯正教育を担う教官はどんな人たちなのか。

知るということは大事なことだと思うんですよね
それを知っているか、知っていないかで自分の見方は大きく変わります

少年院に収監される人は自分たちとは違う、と思った瞬間にそこは見なくてもよい領域になってしまう、その頭の動きが危険です。関わりはなくても、知ってるのと知らないのとでは出てくる考えは大きく変わるので。

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