Challenged(挑戦する機会に直面する人)というフレームを持つことの重要さ

困難を抱える人の支援の現場に身を置く一方で、若い人の起業を支援する立場で働いていると、両者の本質的な違いがそんなに大きくないのではないか、と思うことがあります。

むしろ、彼らをこのような状況に分けたのは、彼らをとりまく社会の側にあるような気がするんですよね。

障害者支援もそう。

障害を持った方々が、障害者として捉えられるのは、社会が彼らの抱える障害が他の人と同じような生活を送る上で致命的なデザインになっているからなのではないかと思います。

だから、社会が変容すれば障害者が障害者ではなくなる可能性もあるわけです。

障害を持つ人たちにITスキルを習得してもらい、手に職をつけるための支援をしているこの組織の取り組みなどはまさにそれかと。

Challenged (挑戦する機会に直面する人)という呼称の前では障害者と呼ばれる人もそうでない人も関係なく、みな挑戦する人。

そういう認識で社会に生きる多様な人を捉える新しいフレームがもっと普及しても良いのではないかと思います

最澄とU理論

平安時代の仏教て、今の社会にとっての「科学」みたいな、非常に重要な位置づけだっただろうから、僧侶は超ざっくし言うと科学者みたいなもんだと思う。

そう考えると、さしずめ最澄と空海はジョブズとベゾスって感じでしょうか。それぞれすごいイノベーターだと思うわけです。

で、特に最澄について書かれた梅原猛氏の『最澄と空海』で読み進めていくと、最澄の人生はオットー・シャーマーのU理論の道筋に驚くほど当てはまるのが面白い。
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【読了】この地獄を生きるのだ うつ病、生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで。/小林エリコ

しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで 二歩さがる

だったらいいですけども。
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自分探しは恥ずかしい?これまでも今もこれからも?

って思うんですけど。どうなんですかね。

ネットとか、いや、リアルでも、自分探し中って口外している人で、かつ年齢的に20代後半とかの人はなんか「やっちゃってる人」「いたい人」みたいな感じで見られることが多いのではないかと思うのです。

かくいうタナカは、就職活動3回して最初の会社入りましたけど、その時点で自分のやりたい道?志?使命?みたいなものがちゃんとあったかというとはなはだ怪しい、というか無かったですね。

社会人というポジションには入り込んだけど、だからといって定まってた感じはない。それって自分探し中なのと何が違うんだろうか。

今だって、会社やめてなんとなくこういうことやっていきたいというのはあるけれど、じゃあそれが未来永劫自分の進むべき道を指し示す使命なのかと言われたら正直わからない。

あのスティーブジョブズだって、どっかの大学の卒業講演で(あ、これだこれ

「Connecting The Dots」

というキーワードでかっこよく話してますけど、あれなんて壮大な自分探しの話ですからね。

結果的に偉人になれたらそのプロセスは肯定され、そうじゃなければ否定されるなら、それは自分探しがハズいってことにはならない。

もしかするとうまい探し方、みたいな切り口はあるかもしれないですけどね。うまい時運探しの方法があって、それと対比して自分の自分探しの振る舞いはちょっと不味かったかな・・・みたいな。

これから先、今よりももっと世の中が流動化していった場合、「自分はこれで食っていくぜ!」みたいな拠り所がある日突然雲散霧消してびっくり・・・みたいなこともあるわけです。

そうなったときに、自分の道や志が変容したりしばしの間空白になったりもするでしょうし、そういうときの活動や思考って立派に自分探してると思うんですよね。

私自身も現在進行形でそんな感じなので、それでいいんじゃん?と思っていますが、周りの人でも「こんな歳で自分探ししてるわ自分・・・」とか感じている人も、それでいいんじゃない?と言ってあげたい。