コレクティブインパクト型プロジェクトの事例研究~若者の就労マッチングを目指した若者UPプロジェクトのレポート公開~

HBR2月号のタイトルにもなった「コレクティブインパクト」

社会的課題に対して、立場の異なるプレイヤーがボランティアという形ではなく、責任をもって結果にコミットすることで、社会的課題の解決を目指す新しい協働の形

既存文献の中では、海外の事例が引き合いに出されていますが、事業規模や期間のばらつきはあれど、日本国内にもいくつか事例があります。

先月品川のマイクロソフト本社で紹介された「若者UPプロジェクト」もその一つ。

困難を抱える若者が、基本的なITスキルを習得し、円滑な就労に移行することを目指して、
民間企業x民間のNPOx行政
というプレイヤーがそれぞれが強みを発揮できる形で参画し、2010年から2017年まで大きな成果を挙げてきました。

さらに、2018年度からは、その成果と手法が認められ、厚生労働省の政策としてスケールアウトし、今では全国の若者向けの就労支援施設であるサポートステーション(通称サポステ)等で利用可能な制度として定着しています。

ありがたいことに、この取り組みについて当事者の方々にインタビューし、既存論文のフレームを活用しながら若者UPの成功要因について分析したレポートを執筆させていただく機会をいただきました。

社会的課題は、単一の組織で取り組んでも成果を挙げるのが難しく、時間もかかります。一方で、多様なプレイヤーの協働による取り組みは、理想的ではありますが、その分意思疎通やコンセンサスの形成、中長期的な関わりが大事になってきます。

若者UPというプロジェクトを取り上げながら、現場の当事者の考えや動きも織り交ぜてリアリティも残しながら紹介しています。社会的課題の解決を目指す多くの方々の参考になれば幸いです。

「わかりやすさ」と「わかったつもり」

池上彰氏の「わかりやすさの罠」を読んでいます。

帯の顔のアップ具合が、池上さんの知名度の高さをよく表していますね。ニュースをわかりやすく伝えるという意味で池上さんは日本でもトップクラスのキャスターなんじゃないでしょうか。

本書のタイトルにもなっている「わかりやすさの罠」

子ども・若者支援に携わっていると少なからず感じるところです。

問えば、幼児虐待の悲惨なニュースが報道されれば、社会は、親に対する熾烈な批判で埋め尽くされます。
非行少年の起こしたアクシデントや犯罪が起これば犯罪者は一方的に糾弾されます

でも、少し立ち止まって
「100-0」で親が悪いのだろうか?
犯罪を犯したことは確かに悪いことだが、なぜ彼はその犯罪に手を染めたのか?

という疑問一つ立てることができれば、単純に両親が、罪を犯した本人だけに原因を求めることの違和感を持つことは可能なはずです。

表面的なニュースを視覚的にスクロールして、「毒親」「悪人」という書き込みに「いいね」の親指が立ちまくる状況を見ていると、そういう違和感を持つ人がどんどん少なくなっているのではないか、と思う事がままあります。

池上さんのわかりやすさの価値は

「複数の事実が複雑に関係しあった情報の塊の一部を切り出して、そこの解像度を高めてくれている」

点にあるのであって

「複数の事実が複雑にあ関係しあった情報の塊」

をみせてくれているわけではないかもしれない、ということに気づく必要がある。

わかりやすい”断片”を見て、それがわかりやすい”全体”だと認識してしまうことが、「わかりやすさの罠」なんじゃないでしょうか。

だからこそ、池上さんのニュース番組を見て、全てが「わかったつもり」になるのは危険だと、同氏は警鐘を鳴らしているのだと思う。

時間があり、考える余裕もあれば、自分の目の前に突き付けられているニュースが誰かの編集を経て拵えられているのだから、他の情報と突き合わせてみなければならない、その余裕もなければ少なくともそのニュースが物事の全体だと錯覚したり、事実と完全に一致するという判断はしないでおこうとも思える。

その余裕が日本ではなかなか取れないのかもしれないですね。

さて本書ではその他、キャスターとアナウンサーの違いや、週末のニュースバラエティに出てくる巨大フリップ形式の見出しの位置づけとか、メディアに関わる方ならではのトリビアも散りばめてあります。

読んだ後テレビ番組見たら、見方が変わってると思う。

本家だけあって文章はシンプルでわかりやすく、かつ、伝えたいことのコアの部分が失われていない良書でした。

若年無業経験者の規模感を線的に把握することで見えてくるもの

育て上げネットでは様々な統計データ等を用いながら、子ども・若者の置かれた状況に関する分析や考察を継続的に行っています。

子ども・若者領域のNPOとして、ここまで精緻な分析を行っている事業者は、他にはちょっといないんじゃないかな。

ともすれば定性的な成果が掲げられがちなこの業界において、育て上げネットのように、定量的な把握を重視する姿勢というのは、非常に稀有だし、重要な取り組みだと思います。

さて、最新のリリースで提示されたのが、若年無業者の人数。

このリリースの特徴は、ある時点での若年無業者の人数という「点」としてのデータだけでなく、一定期間中に若年無業状態にあった若者の人数(概念としては述べ人数に近い)を推算しているところにあると思います。

2019年2月1日に発表された「労働力調査(基本集計) 平成30年(2018年)平均(速報)結果」をベースにして、

  • 15歳~39歳
  • 非労働力人口(就業者、完全失業者以外)のうち、家事も通学もしていない

という条件に合致する人を抽出したところ、71万人という分析結果が得られた、というのが、2018年12月31日時点で若年無業者だった人数という「点」としての示唆。

そこから、労働力調査が同世帯に対して2か月連続でやっているということを利用して、まずは15~34歳の若年無業経験者数を推計し、それを15~39歳まで引き延ばしたところ、年間で若年無業状態を経験した人は180万人程度いるのではないか、という結果を提示している。

もっとも、この180万人の中には、複数回、若年無業と非無業の状態を行き来している人が含まれている可能性があるので、正確に言うと、延べ人数ということになるが、それでも、71万人という数値と180万人という数値とでは持つ意味も、規模感も全く異なってくる。

平均して2%が若年無業状態であり
年間を通じて5%が若年無業状態を経験している

という2つのデータをセットで認識しておくと、若者の実情のより良い理解につながるのではないだろうか。

愛知県知多市の地域で支える就労支援

昨日は愛知県知多市が開催する「若者就労支援フォーラム2019」にお招きいただき、各地の若者就労支援の取り組みについて、というタイトルで講演の機会をいただきました。

知多市には「ちた子ども若者支援ネット」という、行政機関やNPO、民間企業が参加する中間的就労を支援するネットワーク組織があります。社会福祉協議会がネットワークの事務局機能を担っているということでしたが、この社会福祉協議会のスタッフの方々が素晴らしい方だったのが印象に残っています。

福岡県北九州市の総合相談センターのYELLや、東京都文京区のフミコム、そして知多市の子若ネットといった活発に活動を続けているネットワークの共通の特徴としては、ハブとしての社協がしっかりしている、というところですね。
社会福祉協議会の役割や活動についてはこちら↓

さて、知多市の取り組みは前々から大変興味深く拝見しており、いつか現地でその活動を支えている方々にお会いしたいと思っていたところに、今回のようなお誘いをいただいたのは非常にありがたかったですね。

知多市では、中間的就労の促進ということで、このネットワークの活動が非常に特徴的なのです。

何が特徴的かというと、就労体験の場を、その地域で事業をされているさまざまな企業と連携することで提供しているというところにあります。

ちた子若ネットでは、平成28年に、15歳から39歳までのニート、ひきこもり状態にあり、障害福祉サービスを利用していない方を対象として、中間就労準備支援、企業開拓、人材発掘・育成を試験的に実施しています。

同時に、知多市商工会を通じて、市内事業者約1000社を対象にして、「若者の中間就労に関するアンケート調査」を実施、ヒアリングを経て約30社から中間就労体験の場を提供してもよい、という事業協力を取り付けています(ちなみに、平成30年時点では48社に拡大)

その上で、22歳から38歳までの男女8名が、製造業など6事業所で就労を体験し、うち2名が市内事業所に正社員として採用されたということです。

非常に参考になるのは、上記の調査および体験就労支援のコスト負担を、地元のライオンズクラブやロータリークラブの寄付によって賄っているということです。

こういった活動を展開する場合、行政による助成金や事業受託によって賄おうとするケースは非常に多いのですが、知多子若ネットではその道を選ばず、地元の他のネットワーク組織にアプローチしたという意思決定をしている。

資金調達ルートを多様化するとともに、自ネットワークの認知度向上やプレイヤーの巻き込みといった様々な面で、このトライはいい影響を及ぼしたのではないかと思います。

知多市は大都市である名古屋から電車で30分ほど。多くの若者が名古屋に働きに行く中で、中間的就労の場を設けて、就労を希望する若者と地元企業をつなげる接点を作ることは、地域福祉という観点だけでなく、まちづくり・地域経営という観点からも重要なのではないかと思います。

一方で、課題として挙げられていたのは、集客(=参加者を増やすこと)と、参画企業との関係維持というところにあるということでした。

岡山県勝央町でも同様の取り組みを進められていますが、こちらも参加者がいないということが課題になっています。

良い仕組みを作っても、それが使われなければ意味がありません。
広報や情報発信のテコ入れ、あるいは利用可能なターゲットの拡大といったところが正攻法的な打ち手として考えられるのではないでしょうか。

また、参画企業の関係構築としては、年1回程度、活動報告を訪問して行ったり、あるいは、今の若者の就労に関する意識や考え方を伝えるといったことも有効かもしれません。企業にとって、どのような会社であることが、若者にとって魅力的に映るのかは、なかなかノウハウの蓄積がない分野のひとつです。

現場で若者と接点を持っているからこそ持てる気づきや学びを子若ネットから提供することができれば、企業が参画するインセンティブになりうるのではないでしょうか。

社会福祉法人という民間事業者としての活動の幅広さと柔軟性を活かして、今後の活動展開にまい進していけるとよいのではないかと思います。

闇の中にはヒカリがあり、光の周りには壁がある。

荻上チキ氏の『彼女たちの売春(ワリキリ)』読了

「売春」と書いて、『ワリキリ』と読むそうだ。

心と身体ではなく、おカネとカラダという割り切った関係だから、ワリのいい、キリのいい関係だから、そういうことらしい。

彼女たちはワリキリという行為を自分で選択したことは確かだ。
でもその仕事を強要されたという文脈でやると決めたり、貧困状態や障がいを持った状態でやむにやまれず決断したという経緯の場合、それを自己責任と言い切るのはあまりに粗暴な言い分なのではないかと思う。

でも、それを粗暴と言い切るためには、この国にはあまりにもデータが少なすぎる。そういった領域からは目を背けたいという気持ち、経済的な豊かさを背景にして、そのような仕事が選ばれることはないだろうという自分の立場中心的な見方などがある。
さらに、仮に政府の統計によるデータがあったとして、それが本当に確からしいのか、という話も最近は出てきてしまうのが残念なところでもあります。

『売春はいつも、個人の心の問題などに還元されてきた。政治や社会の問題として語られるときは、包摂ではなく排除の対象として、セーフティネットではなくスティグマ(烙印)が必要な対象として、生命や人権の問題としてではなく風紀や道徳の問題として、売春は受け止められ続けてきた。』

と荻上氏は述べている。そして、そのような言説は、

『これらは凡庸で退屈な、無慈悲さに無自覚なクリシェ(常套句)である』

と切り捨ててもいる。
そこまで喝破できるのは、同氏が地道なフィールドワークを通じて、何百人もの女性や出会い喫茶の経営者へのインタビューを積み重ねてきたからだ。

3~4割は何らかの経済的理由で困窮
3割は何らかの病気や障害を抱えている
3割はDVや虐待の経験がある
2割が中卒、高校中退・高卒6割
友人・知人の紹介が約6割
1日に1万件以上のワリキリが成立
月に1度以上の頻度でワリキリを行う女性が、少なくとも10万人前後は存在していると考えられる

3割は何らかの病気や障害を抱えている
3割はDVや虐待の経験がある
2割が中卒、高校中退・高卒6割
友人・知人の紹介が約6割
1日に1万件以上のワリキリが成立
月に1度以上の頻度でワリキリを行う女性が、少なくとも10万人前後は存在していると考えられる

「風俗」「出会い喫茶」という言葉の裏に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた、ほとんどの人が直面したくないデータが、荻上氏の取材の中で、次々に浮き上がってくる。

そして、

『虐待や暴力を受け続けた彼女たちが、NPOや行政などに頼ったことがあるという話はほとんど聞いたことが無い。』

という支援サイドにとっては耳の痛い当事者の発言。
本当に支援を必要としている当事者には、支援がなかなか届かないという支援者サイドの声はこれまで何度も聞いてきた。それを改めて需要者サイドの言葉として聞かされると、需給のミスマッチの存在が、双方の発言から繋がってRealizeされる。

『家の無い者は生活保護を受けられない、というウワサ
生活保護を申請したら家族に連絡されて捕まる、という恐怖
売春は違法だから捕まって刑務所に入れられる、という思い込み
名前は聞いたことがあるけれど、どこに行けばいいのか、どんなものなのかも知らない』、という未接続状状態

サービス提供者側のリーチの拙さ、初動の遅さといった当事者から見たときの障壁の多さを衝いて、困難に直面した女性にアプローチしていくのは様々な風俗サービスやいわゆるカタギではないビジネスマン達。
多くの支援は、戦術面でそういった産業・ビジネスに圧倒的に劣後しているのが実情だったりします。

一方で難しいのは、そういったダークな産業・ビジネスの「黒さ」にも濃淡があるということでもある。後段で紹介される難波の出会い喫茶発祥の店の店長は、自分が始めた業態を次のように語る。

『女の子も、誰も好きでこんな世界に来るわけじゃないですやん。やっぱりお金がないから来るわけでしょう。あれもこれも辛抱せえ言われても、お金がなければ、自然の流れで売春っていう方法しかないですやん。そういう子だけやなくても、ただ人とうまう調和できないとか、理由があって朝起きられないとか、社会に順応でけへん子たちが働くところがあってもいいんちがうやろうか。』

ちなみにこの店長も、親に育児放棄されて農家の養子になり、カタギではない世界に身を投じた後に大病を患い、一時期は西成でホームレスをしていたという人である。

そしてそんな身の上の人から新規事業創出のための真言が飛び出してくるから事態は余計に複雑になるのである。。。
『発案した人間の魂っちゅうのがあるんですよ。魂っていうのは、コンセプトを言うんですけど。絶対に金を追いかけるな。人を追いかけろと僕は店員によく言うんです。』
この発言だけ切り出したら完全に新規事業創出セミナーとかで誰か言ってそう。でも、出てきたのは出会い喫茶という一風俗サービス形態だったりするわけです。技術とアウトプットは分けて考えなければいけないという誰かの発言を思い出しました。。。

荻上氏は、この創案者のインタビューパートの後に次のように書いている。

『批判として可能であることと、その批判が代案を用意してくれるかというのは別問題だ。』

出会い喫茶創出者は、彼の半生と反省を込めて、彼なりにできるパッチを充てた。
それは単純に風俗産業を糾弾して終わり、そこで働く人を批判して終わり、という人と比べてどう捉えればよいのだろうか。
来てくれればいい支援なんだ、更生できるんだ、と構えてるんだけど「Twitterはちょっと・・・、SNSは使い方が・・・」とか「まずは来所してもらってから・・・」とか言っている支援と比べてどうか。

そこには貧困状態から脱却できたかどうか、社会的な孤立は解消されたのか、不幸にも家族から向けられる暴力などから逃げられているのか、などなど色々な観点がある。たぶんどの物差しを手に取ったとしても、どれ一つとして満点回答が得られる対応ではないだろう。相対的に、ソレが少しだけ点数が高いというだけだと思う。

ひきこもりやニート、若年無業という問題、そして女性の貧困や困難という問題に固着しやすい売春という問題も、単一の組織、特定のサービスで解決するものではなく、教育機会の提供、家族の支援、就労先の多様性の担保とアクセス向上、貧困対策などなど多様な領域での支援を組み合わせてシステム的に解決することが重要ではないでしょうか

一部の支援者の方々にとっては、いまさら感のある話なのかもしれませんが、それを数値的なデータで裏付けようとされている点で意味があると思うし、そうじゃない人にとっても、当事者のリアリティを感じられる一冊だと思う。おススメ。