少年院という学校、刑務所という福祉施設

前職卒業して、身体の半分くらいを子ども・若者の自立支援に関わる活動に投入してからというもの、少しずつですが、支援の現場に近いところで仕事ができるようになりました。

少年院に入っている少年に勉強を教えるというのもその一つ。


少年院というところ、普段生活していてなかなか目にすることも、耳にすることもない施設ですよね。

でも、実は都内にも何か所かあり、上記の記事はそのうち八王子にある多摩少年院に訪問したときのもの。

少年院で生活している少年たちと一緒に考えていて感じたことは、

「少年院に入ってない同年代の子とあんまりかわらないな…」

ということでした。

もちろん、珍しい外部の人に対して”余所行きの顔”をしているのかもしれないですけれど、正直自分が想像していたイメージよりずっと、おとなしいし、真面目だし、何かがわかったときの反応なんか、起業を目指す人が見せる表情とさして変わらないんですよね。

どーも僕らは、現実をあまり知らないようです。

よく考えたら、ニュースでも「事件が起こった」ということは盛んに報道するけれど、その後のこと(起訴されたのか、裁判でどのような判決が下ったのかなどなど)になると、急に情報量が減る気がする。

ましてや、刑務所に収監された後、少年院に入院した後のことまで追っかけている人は、関係者以外皆無なんじゃないだろうか。

ニワトリタマゴの話で、僕らも興味関心がないし、メディアも報道しない。

施設の存在は知っていても、そこにどんな生活があるのか、ということは誰も知らない

その最たるものが、刑務所や少年院といった矯正機関なのではないだろうか。

そんな問題意識が、なんとなーく頭の隅にひっかかりながら生活していたら、先日寄った荻窪のとんがった書店「Title」でみつけちゃったわけですこんな本。

なんすか、この敷居の低さを体現した表紙デザイン。

ユルい。ユルすぎる。仮にも犯罪者を収監する施設について書かれた書籍です。灰色とは言え、ハートはいかんでしょ。しかも、ハートで囲まれているキャラの罪のない佇まいもいけません。何がいけないって・・・そこは、よくわからないけども、とにかくマズいですよ・・・。

そんなデザインにまんまと手を伸ばし衝動買いの本の山の一冊に加える自分。LIBROの時と行動がかわってません。

読んでみます。むむむ。これです。無知の状態にある者だけが感得できる、空っぽの容器に勢いよく水がバシャーって注がれていくような、初期の知識充足の満足感。

これまで知らなかった刑務所の現状についての情報が、無知という脳内領域をみるみるうちに塗り替えていきます。

いくつか例を挙げると・・・

・2016年に刑務所に入った受刑者の約2割は知的障害のある可能性が高い

・最終学歴は中卒が最も多く40%、高卒が30%、大卒は5%。

・知的障害のある服役者で、収監された理由で最多のものは窃盗罪、次いで覚せい剤取締法違反、次が詐欺罪。文字だけだと凶悪なイメージだけど、内実はパンとかおにぎりを盗んだり、ダッシュボードに置いてあった30円を盗んで懲役、クスリの運び屋させられて懲役、無賃乗車、食い逃げ、オレオレ詐欺の出し子やらされて懲役、みたいなものも多い。しかもその理由はだいたい「生活苦」

・知的障害のある受刑者の服役は平均3.8回。65歳以上の知的障害のある服役者だと70%が「5回以上」

本当は高齢者の受刑者の話もしたいんだけど、ここでは障害を持つ受刑者のファクトのみを列挙してみた。

ここまでだけでも、既に自分が抱いているイメージとだいぶ違う。そして、一冊読み切ると、だいぶ違うどころか、ほぼ完全に自分のイメージが実態と違うことがわかる。

この本で問われていることは、刑務所に収監されている人は犯罪者なのか、被害者なのか、なんなのか?ということだと思うんですよね。

犯罪行為が社会的な制裁を受けるべき行為であることは間違いない。

でも、この本の中で紹介されている服役者は、加害者なんだろうか。犯罪者なのだろうか。

自分の行動をうまくコントロールできない。

うまく表現できない。

自分を見る人の目は初期状態からして疑いの目、得体のしれない者を見る目で見てくる。

生活は苦しい。

そんな状態で何かのきっかけでパニックになってとった行動で捕まり、裁判の場では意図せず裁判官の心証を悪くする言動をとってしまい、それが反省の色なしと取られてしまって懲役が決定してしまう。

感情のコントロールや表現方法が他の人とちょっと違うとわかる人がいれば

「まあそういう感じの人もいるよね」とフラットに見てくれる人がいれば

彼の生活の苦しさや孤立を解消できるような仕組みがあれば

多くの人が刑務所に収監されなかったかもしれない。

著者も

『障害のある人を理解するっていうのは、腫れ物のようにあつかうことでも、むやみに親切にすることでもない。自分と同じ目線で接し、彼らの立場になって考えてみることだ』

と言っているように、大事なのは、自分も相手も、それぞれ異なるということを前提にした上でのフラットな関係を作れるか、ということなのだと思う。

まあ、それが今の日本社会では難しいので、本書で紹介されているような、むしろ収監された方が困っている人にとっては幸せ、という歪んだ状況がうまれているのだろう。

生活苦と孤立というハードモードの世間に比べて、刑務所の生活の難易度の低さ。

屋根と壁のある生活。

食事は三食。

世間の人より理解のある看守。

累犯者が多い理由の一つは、世間と刑務所の「生きやすさの逆転現象」が起こっているからだったのだ。

刑務所に戻りたいから、出所した直後に万引きする老人の事例が紹介されているけれど、迎える社会の生きづらさが、彼等に罪を重ねさせる側面も確かにあるだろう。

そんな生きづらさを抱え、微罪に再び手を染めてしまった彼らは犯罪者なのだろうか。

間違いなく犯罪を犯した時点では犯罪者だ。でも、その前後の過程まで視野を広げてみると、彼は実は被害者だったのかもしれないとも思う。

点的には犯罪者、線的には被害者だ。

そして、彼らを取り巻く面としての社会は、もしかしたら加害者と言えるのかもしれない。

そう考えていくと、刑務所って、加害的な社会から障害を抱えた人や行き場を失った老人を匿う福祉施設のようにも思えてくるから不思議だ。悔い改め更生させる矯正施設とはなんか違う。。。

この本でも「刑務所の福祉化」という表現が使われているけれど、もはや実態として福祉施設に近いのかもしれない。

少年院に入ったときも、少年と24時間365日をともにして、少年の更生のために働く法務教官の方々の姿勢が印象的だった。少年院は矯正施設だけど、まぎれもなく教育施設だった。

刑務所は福祉施設で、少年院は教育施設。どういうこっちゃ。

どうも自分が持っている認識と実態はだいぶ違う。たぶんそんなことは世の中たくさんあるんだけど、一番実感できるのって、僕らの社会がいちばん目を背けてきた、矯正施設という領域なんじゃないか。自分は運よくそういう経験ができてる気がします。

ということで、ちょっと蓋開けてみてみませんか。

少年院なんかは定期的に見学会を開催していて、そちらもおススメですが、ちょっとハードル高いという人はまずこの本からどーぞ。

ちなみに、少年院に関する本でおすすめなのはこちら。

少し前に閉院した奈良少年院に在院していた少年たちがつくった詩の詩集です。冒頭のように、「彼らと施設の外で生活している同じ年齢の子たちと何が違うんだろう」と考えさせられる一冊です。