宿泊機能もある居場所の重要さ

本日は、プロジェクトのお手伝いをしている東京都豊島区・文京区などを中心として若者の自立支援を行っているNPOサンカクシャの打ち合わせを、同団体が運営している北区の居場所でやってました(というか、正確にはやってます:現在進行形)

日本かぶれの外国人映画監督が好きそうな雑居ビルの3階に、もともとはゲストハウスなのか民泊用に使われていた物件を提供してもらって運営している居場所には現在3名がの若者とスタッフ1名が同居しているらしく、会議している部屋の隣ではスタッフと若者がカードゲームに興じている感じが居場所感満載。

この場所は、宿泊機能もついているところで、いろいろな事情で住む場所に困っている若者に格安で居住環境を提供している点が特徴的です。

若者にとって、サポートを得られる場や、時間を過ごせる居場所があるということは重要ですが、寝起きできる場所が備わっていることも同等以上に重要です。しかしながら、生活する場所となると手続きが大変ですし、責任もそれだけ大きくなるので支援として担保するのが難しい種類のものだったりします。

オリンピックも開催が不透明な状況で、多くの居住物件が低利用な状態になっているので、こういった支援者がいる居住空間への転用というのも必要な支援であるように思います。

コロナウィルスに関する情報について思う事

横浜港に停泊しているクルーズ船の状況について感染症の有識者の方がYouTube上で話した内容がバズりました。

船内かなりカオスであろうこと、必ずしも科学的論理的な対応がとられていないことは大いにありうるだろうと思います。

現政権の対応不備も間違いなくあるでしょう。
ただ、一元的に現政権の機能不全のせいにしてしまうコメントが多いのもいかがなものかとも、この古巣のコラムを読んでると思うんですよね。

そもそも、クルーズ船のような治外法権にも似た領域をビジネス先行で運用してしまった結果、今回のような有事の際の対応が後手に回ったというのが問題だったのではないかと個人的に思うわけです。

https://www.nri.com/…/knowled…/blog/lst/2020/fis/kiuchi/0217

とはいえ、事態は発生してしまっているので、多国間調整しつつ、現場レベルでベストエフォートの対応を模索&実行していくしかない。
ちなみに、さらっと書いたけど、多国間調整と現場対応の並行処理は担当者の部署やレイヤーが違うのでこれまためっちゃ大変だと推察される。

いずれにせよ、すべての現場で水際対応いただいてるすべての方に感謝&ご自愛くださいと申し上げたい。

政治家とヒーロー

今日は知り合いの方の御紹介で、東京都議会議員の小松大祐議員にお会いしてきました。

小松議員はご自身のウェブサイトの制作の一番上に教育というテーマを掲げられている通り、子どもの教育や環境についての問題意識を強くお持ちでした。

育て上げネットの少年院との協働事業を紹介すると、出院後のサポートの重要性や、入院前と異なる環境で経験を積む事の重要性をずばりと指摘されるあたりが流石だなという感じでした。

コミュニケーションの中で「仮説」という言葉が飛び出してきたり、子育て政策と少子化対策の費用対効果についての問題意識を持っておられたりと、随所に元リクルート出身らしい切れ味の鋭い事業マインドが感じられて、限られた時間ではありましたが、非常に濃い時間をご一緒させていただくことができました。

その後、場所を移して元オリンピック選手の成田童夢さんとランチ。

今は様々なところで講演や教室をされている成田さんですが、実は過去に部屋からでられなくなった経験もお餅という話をうかがって驚きました。

いや、完全にイメージですけど、オリンピック選手に選ばれる人って、メンタルも強靭なものだというのがあったんですが、実際はそうじゃない人もいるんだなあ、というのが新鮮でした。

よくよく話を伺うと、脚光が当たっている時と、社会の期待から外れた状態になった時とで環境が激変してしまい、時に、アスリートの方ですら耐えられないギャップや風当たりに直面することも多いそうで、「確かにそうだよね」という納得感もありました。

こういう話をうかがっていると、本当に誰だってひきこもり状態になってしまうこともあるし、そういう場合に誰かが支えてあげることで、その後の人生は浮きも沈みもするもんなんだなと感じました。

意外に身近なところにある「ひきこもり状態(の人)」なのだから、社会として支え、応援してあげないと、ほぼ確実に対応が追いつかないということでもあるのだと思います。

困難に直面したときのメンタリティ

前回のエントリーで、失敗経験を積むことで得られることについて自分の過去や考えをちょっとご紹介しました。

そしたら東洋経済がこんな記事をUPしてまして、扱っている内容の類似性から読み込んでしまいました。

僕はあまりヒロミ氏が出演している番組を視聴したことがないのですが、印象としては、他の出演者との距離感の取り方が特徴的だな、とは思ってました。

それと、いくら番組で見る機会が少ないとはいえ、全然番組に出ていないな、ということも何となく思っていた気がする。この記事を見ていると実際に出演機会が極度に減っていた時期があったみたいですね。

そのときの気づきや学びとして書かれている内容が、いい意味で力が入ってない。自然体な感じで共感しました。

仕事も100%、120%。バランスを取るために遊びも120%でやってきたけれど、どこかで疲れてしまう。通常は80%でよい。それを自分にもあてはめるし、他人が80%でやっていることも許容する。それが長い人生を楽しむために必要なスタンス。

起業家の人や、起業することを目標にしている人の一部の人には、この120%系の人が多い気がします。起業界隈以外でも、職場の同僚や上司にもいますが。

個人的にはそれってどうなんだろうと思うわけです。

まず永続性が無い。120%系の人の、「血を吐いても120%であれ」みたいな主張、たぶん120%でやったら10年持たないですよね。健康な心身な人でもたぶん5年くらいでボロボロになると思う。

それなら80%で長くやった方が中長期的にみたらバリューでるんじゃないかなー。社会的なインパクトは残せるんじゃないかんーと思うわけです。

1年に120の仕事をして10年で燃え尽きる場合と

1年に80の仕事をして20年続いてる場合

すごいラフに比べると、120x10=1200と80x20=1600で、後者の方がいい仕事してるって言えるんじゃないの

起業の世界は、スタートアップの世界はスピードが命!という指摘があるのはわかるけど、80%でもスタートアップとしてやれる方法を考えるのがスマートなのでは?とか思ってしまう。

あと、ぶっちゃけ思うのは、120%って嘘でしょ。。。うわー身も蓋もない。。。

絶対、家庭の要素とか、煩悩とか、脳みそに入ってくるんです。人間だから。そういうのが自分の思考に入ってくるのをを許容した時点で、「仕事120%!」なんて言えなくないですか?

いやいや、家庭も、煩悩もすべては120%のためなんだ、とか本当に言える?それ、まじで言ってます?僕はちょっと信じられないですけどね。

家族といるときも脳みそ完全に仕事のこと、うまいめしたべてるときも、ちょっと快楽におぼれちゃってるときも完全に脳みそ仕事のことしか考えてないとか、ないでしょ。いや、だったら仕事しろよと、なるでしょw

もう点滴で栄養うってさ、トイレとかにも意識飛ばしたくないから尿瓶活用でつねに仕事してる人いたら信じますけど。いないでしょそんなひと。いうなれば合理的経済人なみの空想的存在ですよ

だからヒロミ氏が振り返って120%ってのも多分ちょっと盛ってるんですけど、でも大事なことは、

「失敗した~」とか「疲れた~」みたいなネガティブな状態になったときのリスタートの仕方が

「いやいや俺はこんなもんじゃねえ」みたいな筋肉質な反応じゃなくてさ

「失敗したけどまあぼちぼちやれるところから~」とか「疲れたからちょっと休むのもありか~」みたいないったん衝撃吸収して凹んで緩やかに元に戻るような感じの方が長い目で見たらいいんじゃないの?ってことだと思うんですよね。

そこが、先日の失敗の蓄積ができた人のスタンスに似てる気がする。

あのときに比べればまだましか~

みたいな、負の状態を受け止めて、受け止めてちょっと「ううっ・・・重っ」てなってる状態からスタートする。そんな考え方や動き方って結構重要なんじゃないかと思うわけです

失敗の相対化~成功体験と同じくらい大事な失敗体験の蓄積~

年末に茨城県の精神保健福祉センターにお招きいただいた際の話の内容がいつの間にか記事になってました

当日は60人くらいの方がご参加されており、私とひきこもり大学の茨城キャンパスを主宰されている大谷武郎さんのご講演の前に自分の経験をお話する機会をいただきました

私は大学院時代に半年間ほどですが自分の家からほとんど出ることができなかった期間があります。多くのひきこもり経験者の方からすればごくごく短期間の経験でしたが、その経験もあったからこそ今でもこういうお仕事をさせていただいているので、経験というのはどこで活きるかわからないものです。。。

上記の記事の中でも書いてありますが、自分のひきこもりのきっかけはいわゆる「学業のつまずき」でした。

大学院での研究がうまくいかず、教授やゼミの先輩や同期の方々にそれを打ち明けることもできず、研究室に行くのが怖くなってしまったんですよね。

ただ、大学院への行きづらさは、ひきこもりの最終的なトリガーでもあったのですが、そうなってしまう原因はもっと前から蓄積されていたように思います。

それは、「失敗に対する打たれ強さ」が無かったこと。自分で何かを意思決定して、おもいっきり顔面に岩が直撃するくらいの衝撃的な失敗ってのを全然経験してこなかったんですよね。

だから、あるときにそういうのを一回食らうと、それが致命傷になって立ち上がれなくなる。

もし、もっと前の時点で、そういう経験を何度も経験していれば、「あのときに比べればたいしたことないな」と思えるかもしれないけれど、当時の自分にはそういう余裕も引き出しもなかったんですよね。。。

よく、ひきこもりからの脱出には成功体験の蓄積が重要だ、と言われます。

もちろんそれもあるんですが、ひきこもりにならないためには何が必要か、というと、僕は失敗体験の蓄積だと思うんですよね。

色々な失敗をすることで、いま直面している失敗を相対化できることができる。

「あのときに比べればたいしたことないか・・・」と自分を納得させて何とか前に進むことができる。

失敗にはそういうメリットがあります。自分は大学院に戻ってからは、それまで自分が避けてきた「失敗」という経験を意識的に蓄積しようとしました。

具体的には、自分がやりたくないと忌避したり、やれるだろうか、と不安に思うことをあえてやり続ける、ってことだったんですけど

例えば・・・

就職活動では直感的に面倒だと思っても、好きな会社だろうが興味ない会社だろうがひたすら説明会に参加して話を聞く。

OBや社員訪問をして、これで十分聞いたからいいや、と自分で思った人数を越えて、これでもかというくらい話を聞いて回る。

そんなことやってちょっと必死過ぎない?恥ずかしくない?と思っていた終活対策の集まりやセミナーに通ってみる。

こんなことしてるともう毎日失敗の連続だし、恥ずかしい経験の上にさらに恥ずかしい経験を重ねるような毎日でしたが、結果的には通算3回の就職活動の中で一番手ごたえのある活動と結果だったかなと思います。

あと、大学・大学院時代を通じてほとんど参加しなかったいわゆる「合コン」に参加するとか。もう初回の時とかどんな感じだったか覚えてないですが、まあおぼこい感じだったと思います(赤面)。でも行く。

そしたら徐々にその場に慣れてきて、いつしか男性メンバーを揃える立場になって、合コン自体を企画する立場になることも増えて、なんだかそういう場を創るのが楽しくなってくる。

果ては100人くらいのイベントを企画して気の合う友人と開催してみたりと、予想しない方向に自分が成長していたりしました。

そうやって避けたい、恥ずかしいからやりたくない、と思っていたことをあえてやる、続けると、どうやら予期せぬいいことがあるわけですが、一方で着手した初期から中盤くらいまでは目も当てられないくらいの失敗をたくさん経験するわけです。

そこで失敗との付き合い方も何となくわかってくる。

個人的には「あのときに比べたらまだ楽」という失敗の相対化ができたのは大きかったですね。

仕事でいえば、大学院のひきこもり経験がボトムでしたし、

生命の危機でいえば、世界一周中にトルコのイスタンブールのぼったくり熟女バーでコーラ1杯7万円取られかけた上に、ファイナルファイトの中ボスのような容姿のスキンヘッドの巨漢に胸倉つかまれて空中浮遊した経験がボトムだし、

恋愛でいえば、自分のちゃちなプライドとコミュニケーション下手故にふられてしまったあの経験(この話はここでつまびらかにはできないっす・・・)だし

いろんなボトムラインができました。そういう底値の失敗があるから、自分をだましだまし再起できる。再起して心が正常ラインまで浮かび上がってきたら、多少はためてある成功体験を頼りにチャレンジしていける。

そういう意味で、私の中で、成功体験と失敗体験は、自分が生きていく上でそれぞれ違った役割を持っていて、どちらも大事な記憶なんですよね。

だから、人には成功体験だけでなく、失敗体験もたくさん積んでおいた方が良いって言います。茨城での話でも、それを何より伝えたかった。

何かにトライして100%成功することなんてまずない。失敗は必ずつきまとう。それに直面している時はつらいけど、だからといってそれを避けずにしっかり貯めていくと、中長期的に自分のタメになるから。

アンケートで自分の話を聞いて楽になった、という感想を書いてくれた方が何人もいたのですが、そういう方はきっと「成功の呪縛」に縛られているんだと思う。成功しなければいけない。成功する見込みがないならやってはいけない。そんな縛りを課していると、挑戦する機会が極度に減るんです。トライできなければ失敗ができない。失敗ができなければ過去の自分のように心の防御力が限りなく低い状態で社会に出ていくことになる。

だからなるべく早い段階からいろいろなことに挑戦して失敗するのがいいと思う。でも、経験はいつでも始められる。若いころにできなければ今からでもトライしてみたほうがいい。そして、恥ずかしいかもしれないけど、周りを頼ってほしいなと思う。若いころは周りにサポーターがいるのが当たり前の環境だったけど、社会的に成人というレッテル貼られたら、それが急になくなるんです。自分が声を挙げないとなかなか気づいてもらえない。

大人と言われる人に、一人として完璧な人なんていないのだから、持ちつ持たれつ、期待通りのサポートじゃなければ「まあしょうがないか」で次の人に頼るくらいでいいんじゃないでしょうか。

子ども・若者支援の仕事をしていて、10年前と今とでは、支援の手厚さは隔世の感があります。手厚さというのは支援の多様性が増したということです。

恋愛にも就職活動にも相性があるように、支援にも相性があると思う。だから、何かとつながってみてうまくいかないのなら、次を試してみてほしいなと思います。次を試すときに、最初のトライの失敗がきっと役に立つと思います。

周りに頼りながら、自分で意思決定して試してみて、その成功・失敗をベースにして、また頼りながらトライして・・・

そんなループを繰り返していけることが自立するってことなんじゃないかなと最近思います。

ひきこもりのレイヤー

名店池袋LIBROの店員さんが荻窪に開いた書店兼カフェ「Title」で衝動買いしたうちの一冊。

を読了。

(執筆時)38歳の著者は、ニートではない。同じような調整困難さを抱えた人が住めるシェアハウスを運営していて、ブロガーのようだ。

そして、本のタイトルにもある通り、ひきこもりってわけでもない。高速バスを駆って名古屋のサウナに蒸されに行ったり、何の変哲もない少し遠い町に降りて歩き回ったり、むしろかなりアクティブだ。

でも、他者とのコミュニケーションにどこか苦手意識を抱えていて、多くの人が普通に暮らしているスタイルで生活していくことに難しさを抱えている。満足を感じる行為や状況もちょっと変わっている(ことを本人も自覚している)。

”ひきこもり”って状態のことで、気質のことではない。

でも、少なからぬひきこもりの人が抱えているコミュニケーションや行動上の特徴を”ひきこもり気質”とあえて表現するなら、Pha氏は”ひきこもり気質のひきこもってない人”って感じ。

じゃあ他にどんなタイプがあるのかと考えてみると、

「①ひきこもり気質xひきこもり状態」

「②ひきこもり気質xひきこもり状態ではない」→Pha氏

「③ひきこもり気質ではないxひきこもり状態」

「④ひきこもり気質ではないxひきこもり状態ではない」

気質と状態でいわゆるマトリクス状に分類するとこうなるでしょうか。

3つ目は、普通の人でもブラック企業とかに身を置いて心が折れたらひきこもり状態になるようなパターン。

いや、こういうケース、決して少なくないですし、一度その状態になってしまうとなかなか社会につながりなおすことができない難しいケースも多いのです。決して珍しくない。

僕はどこだろうと思ったときに、たぶん象限としてはPha氏と同じなんだけど、若干④寄り、「④寄りの②」って感じでしょうかね。。。

というように、象限で4つに整理したとしても、各象限の中は無限にプロット可能だし、経時的に自分のポジショニングが揺らぐことも大いにあり得るわけです。

そんな無限の層、ポジショニング移行の可能性があるはずなのに、ちょと前までの日本社会って、「④とそれ以外」の2層で社会のタテマエを創っていたような気がする。①②③は見なかったことにする。あるいは負け組というレッテルを張って阻害する。

無限のレイヤーを「④とそれ以外」という2層に縮約するという編集の剛腕さ。ナベツネかよ!

もっとも、行政やNPOといった様々なプレイヤーが徐々に「それ以外」の解像度を高めてそれぞれの層にあったサービスを開発し始めているのも事実。そんな中で、Pha氏は自分で自分のポジショニングにマッチする環境を創っているのだと思う。

層の解像度を無限に近づけていけば、究極的には個々人の状態はそれぞれ違うので、社会が提供するサービスとの懸隔はどうしても生じてしまう。その開きは自分で距離詰めて、折り合いをつけなければならないのだと思う。Pha氏は少なくとも現段階での折り合い地点を見いだせているように読める。

Pha氏から見た社会、それに適応するための振舞いのある部分は自分もすごく共感する(高速バスが好きとか)。でも6割4分くらいは違うなと思う(夜行の高速バスが好きだし←そこじゃない)。

そこはPha氏よりも④寄りのポジショニングだからかな。私にも自分なりの折り合いのつけ方がある気がする。自分のそういう折り合いのつけ方ってあまり意識してなかったけど、結構面白いかもしれない。

皆さんも例えば、東京の喧噪やひっきりなしのコミュニケーションから逃れるためにどんなことをしているのか、ちょっと振り返ってみるとよいかも。で、Pha氏なり他の人の振舞いと比べてみたら、人それぞれ振舞いも理由も違って楽しいんじゃなかろうか。

中田家と田中家の家事育児-苗字よろしく逆ベクトルの運営方針-

数日前にオリエンタルラジオの中田さんが、育児家事と仕事について、方針変更する話をされてましたね。

少なからず家事育児を担う者として、中田さんの取り組みはリスペクト、そして何となくライバル心(笑)をもって拝見していましたが、今回上記のような路線変更発言があり、ちょっと驚きました。連載どうするんでしょうか・・・とかそれはいらぬ心配かw

さて、記事の内容を読むと、中田家で起こっていた問題は、中田さんという子人の活動に対する期待値の問題なように思います。

例えば、中田さんが家族のためを思って家事育児をしているのに、相方が満足してくれない。そればかりか、さらにいろいろなタスクをこなすことを要求してくるというくだり。

あと、中田さんが帯びた”イクメン”というブランド(焼き印)の存在もあるのではないでしょうか。

中田さんはイクメンとしてのポジショニングをいろいろな努力を通じて構築してきたのだと思います。それが社会的にも認知され、「中田さん=イクメン」としてのブランドが引っ付いた。

そうなると、ブランドっていうのは不思議なもので、どこかのタイミングで、”このブランドはこうあらねばならない”という外からの圧力が強くなるんですよね。

中田さんはとてもまじめで優しい人なのだと思います。

”イクメン”というブランドを信じて寄せられる相方のリクエストや、「中田さんはイクメンであらねばならない」という社会の要請にも応えようとして、その結果、カウンセラーが言うように「全てを合わせてしまった」。そして、自分がやりたいことを出来ていないというストレスが蓄積されてしまったということなのではないでしょうか。

個人的には、中田さんが直面された事態には、私も結構頻繁に直面しています。

特に「労働時間を減らして家事育児への投入時間は増やせ、かつ、所得は前職退職時と同等以上にせよ」という相方の要求水準とか一緒で笑ったw

ちなみに僕はまだその状態に近づけるべく鋭意努力している段階ですけどもね・・・(苦笑)

なので、気持ちはわかるんです。「ああいいよ。じゃあもうやんねーよ」みたいな心理状態にも当然なります。

ただ、「良い夫をやめます」宣言はおそらくベストな打ち手ではないような感じもするんですよね。。。

期待値の問題なのであれば、期待値をコントロールする必要がある、というのがストレートな課題設定になると思います。

うちの場合は、同じような緊張状態に直面した場合には、限りある時間の中で、抱えているプロジェクトの要求水準と、相方が納得する給与水準(笑)を満たすためには一定時間を仕事に割かねばならず、それの残りでやれる家事育児をやるから、ここで手打ちにしようぜ、という話をするようにしています。

その時に、他の家庭の例も引き合いに出して、同じような繁忙度の家庭と比較しても、自分の家事育児への貢献は見劣りするものではない、ということも言い添えます。

そして、こういう緊張状態になるからには、自分も改めて普段当たり前と思っている相方の家事育児の活動を、当たり前と思わずにちゃんと「ありがとう」と伝えるようにする。そんな修正を心がけています。

相方の目には、どうしても家事育児の部分だけがよく映ってしまいますからね。在宅でリビングで終日仕事みたいなスタイルじゃない限り、仕事の部分はなかなか見えないものです。

そうなると、抱えているタスクの総量がわからない状態なわけで、厳密には家事育児の負担割合が少ないということは言えない。

でも往々にしてその認識が、イライラや体調不良などで霧消する。そんなとき、この緊張状態が再発してしまうんですよね。

だからこそ、いま自分が抱えている仕事の忙しさや状況、あと、それを自分がそんだけの時間と労力をかけてやる必要があると思っている理由なんかは、その都度相方に伝えておくことが重要なのかなと思います。

そこが共有できてなお、家事育児の負担が少ないというのであれば、仕事の効率をさらに高めるためにどうするか考えるなり、一時的に業務と家事のバランスを家事寄りにするなど、やりようがあるのではないでしょうか。

それに、夫婦そろって仕事に注力、家事は家政婦、育児はベビーシッター?なのかな。そうやって業務ごとに切り分けて、機能分化していくよりも、ある程度のカオスな状態を自分の生活の中に持っておくことは悪いことではないと思うんですよね。

個人的には、自分の中に多様性な経験やノウハウがまぜこぜになって、それがあるとき変な結合の仕方をしてアウトプットされることが面白い気がします。

仕事と洗濯系タスクが結びついたことはないけれど、料理なんかはわりかし結びつくことが多いです。

深夜バス多用して、移動時間と睡眠時間を重複させるとか、まさにそういう仕事と家事育児のバランスを取るところから生まれた苦肉の策ですけど、いまとなっては結構気に入っています(笑)

異なるアクティビティの間の結びつきをたくさん作るためには、ある程度、生活の中での自分の役割が多様だった方がいい気がするのです。

ま、そこは個人、家庭による違いがある気がします。うちはこんな感じで親子それぞれマルチロール・マルチタスクで、カオスの縁を歩むような家庭経営をしている感じです。

中田家は秩序の方向に。田中家は秩序とカオスの合間に、ということで、家庭運営方針は苗字よろしくベクトルが逆(笑)

中田家もいろいろ揺り戻しや行きつくとこまで行くとか、仮説と実践が繰り返される方が、連載的には紆余曲折があった方が面白いと思う(うがちすぎw)。

次回当たり、「落ち着くところに落ち着きました。これが中田家流。」みたいなエントリーがくるかもしれないですね。

家事育児メンに深夜バス。結構いけまっせ。

最近、出張の足(兼ベッド)として深夜バスを使うようになりました。

今日もきょうとて名古屋。朝七時。

名古屋名物のモーニングをぱくつきながら仕事してます。

朝7時から仕事を開始できる(ブログを書いてるのは仕事じゃないかw)と、生産効率が違いますね。

普段はこの時間子どもが起きだして「ハラヘッタ」コールに追い立てられるように朝食を作り、あわただしく準備して保育園に送りに行くルーチンを実行している時間帯なのですごくうれしい。

深夜バスという選択肢は、いわゆる貧乏で(質の低い睡眠であっても翌日活動できるだけの)体力があり、時間の余裕もある学生の乗り物だろう、と私も思っていたわけですが

なかなかどうして、最近のバスは家事育児に奮闘するワーキングペアレンツ(特におとん)にとっても使い勝手のいい手段なのではないかと思うようになりました。

まず、何よりも寝ながら移動できるというのがいい。時間短縮効果ですね。

出張当日に移動する場合、前日夜に6時間から7時間程度の睡眠をとり、名古屋に行くのであれば、最寄り駅から名古屋駅までの2時間半くらいなので、合計で8時間半から9時間半。

一方、深夜バスの場合、東京から名古屋はだいたい6時間。乗車するYCAT(横浜シティエアターミナル)までの移動が30分なので、合計6時間半。

なので差分の2時間から3時間くらいが捻出できるわけです。この時間あったら、結構なボリュームのタスクを1つ消化できる。

次に、冒頭にも書いた通り、早朝の生産性の高い時間帯を仕事に充てられる。

名古屋の場合、早朝6時30分に名古屋駅から少し離れたところに到着するわけですが、7時には名古屋駅周辺のカフェが開き始めるので、そこから作業を開始できるのがすごくイイ。

このくらいの時間の頭の動きは本当にすばらしいですね。脳みそをなでなでしてやりたいくらい優秀。この朝のゴールデンタイムを活用できるのは本当にありがたい~。

普段ですと、うちは結構スロースタートなので、保育園の送り時間が9時になってしまうんですよね。。。

で、結局そこから作業場に移動したら9時半とか10時になってしまう。もうその時間になると、頭の回転数はだいぶ落ちているわけです。

単純に作業時間を長くとれるだけでなく、確保した時間の頭の働きがいいとなれば、その時間から得られる生産効率は普段の数倍くらいなんじゃないかと。

最後に、育児家事の一翼を担うものとしてありがたいのは、前日夜の家事育児を最後まで手伝えるということでしょうか。

だいたい帰宅前後の家事育児だと、分担しながらのものもありますが、

  • 子どもの迎え
  • 買い物
  • 夕食準備
  • 夕食片付け
  • 風呂入れ
  • 歯磨き
  • 読み聞かせ
  • 寝かしつけ

はマストで、天候や日程によっては洗濯物の取り入れと洗濯物をたたむという作業が追加になります。

深夜バスによる移動となると、日程的には前日入りになるわけですが、上記の家事を全部やったうえで家を出ても間に合う。これはでかい。

なにがでかいって、

相方に「ちゃんと家事やれる限りのことをやってからいくんですよ」というファイティングポーズを見せられる(笑)

早めに前日入りして顧客への営業だからといって喫する会食も、家事育児に奮闘する相方から見ればただの娯楽なわけです。

家のタスク押し付けて何してるんだと、相方がそう思うのもまあ人情としてわかるわけです。

でも深夜バスなら、タスク全部やりましたよと、会食どころかバスターミナル近くのコンビニで缶ビール1本ですよということで、批判は受けない。

あら不思議、前日入りなのに、「おうおまえ、がんばっとるやないか」という評価になるわけです。

まあ正確には翌日朝のタスクを任せているわけですが、相方の目には、どうせ出張行くんだけど、出発までにできる限りのことをやって仕事との両立を考えている、という風に評価が変容する。

国家間の外交でも担当者の印象が重要なのと同様、家庭内の勢力均衡を図るうえでも、自分がどのような行為を選択し、その行為がどのように相手の目に映るのか、ということを考えながら意思決定するのは非常に重要。

さらにうれしいのは、交通費が馬鹿みたいに安い。家庭にも、具体的には家計にも、優しい。だから相方も僕に、優しい。ええやんええやん。

新幹線で行く場合の下手すれば半額ですから。

本当は、そんなこと気にせず新幹線使えやって話ですが、まあフリーランスやってますと、こういう出費は切り詰めて他のことに使いたいわけです。

浮いた分で子どもに名古屋コーチンのカステラでも買ってやった方が出張に行く気持ちも少しくらいは軽くなるというものです。

もっとも、深夜バスを多用するようになって思うのは、深夜バスを使う理由が「交通費の安さ」だったのは最初の1回くらいで、あとは上記の3つのメリットが大きいから使うようになったんですよね。

家事育児と仕事のバランスを取るためには、仕事の生産性を高い水準で維持する必要がある。そんな人にとっては、深夜バスを利用することは、経済性以上のメリットを享受できる方法なのかもしれません。

最近の深夜バスは依然よりも居住性が格段によくなっていて、今回もほぼほぼフラットに近い姿勢で寝れましたし、翌朝の疲れもほとんどありませんでした。

昔のステレオタイプで物事を見ずに、実際に経験してみる

そうすると、意外に良かった、新しい発見があるということはよくあることなのかなと。「深夜バス×家事育児と仕事の両立」はまさにそんな感じでした。

夢オチ扱いされそうな日本ベルギー戦

日本の敗戦で「つかみかけた夢」「夢のような試合」とか、「夢」という言葉がたくさん使われていて興味深い

恐らく、今回の敗戦が色濃く持っている「非現実味」を受けて、皆無意識的にこの「夢」という表現を使っているのではないでしょうか

この非現実感は

1)まさかここまで善戦するとは思わなかったという意外性
2)後半の35分間で2失点、さらにアディショナルタイムで決勝点という展開の手のひら返し感
3)技術的な劣位を戦術的な工夫でなんとかイーブンに持ってった中で、検証不可能なメンタル的な部分で勝負が決まってしまったモヤモヤ感
4)未明で眠い

といった要素で構成されていて、みんな何で敗けてしまったのかよくわからない。
だからとりあえず「夢オチ」扱いにしてる感じがしないでもない。

個人的には両チームの2点目の失点はチームの動揺が遠因で、そのほころびに付け込まれた形の失点だし
日本が喫した3点目は、日本の選手の注意が一瞬でも延長戦に移ったことによる油断が原因な気がしています。

夢で片づけるよりは、取り扱いむずいけど、メンタル的な部分が勝敗分けたかなと、そう思える敗戦でございました。

多くの強豪は、そういった苦い経験が歴史としてチームのDNAに練りこまれているからこそ強いんでしょうね。
だからこそ日本のこれからにとって意味のある敗戦だったと思おう。良い経験だった。

夢で片づけず、しっかり記憶に留め、未来のサムライブルーの勝利に繋げていってほしいなと思う。

結局のところ、トライの結果には成功か学びしかないのだから。

日本-ベルギー戦に見るメンタリティの重要さ

日本ベルギー戦、アラーム無しで26時に起きて見てました

いやー2点取ったところまでは素晴らしい試合運びでしたね

フィジカルとタッパでは勝てないならシュートコースを潰す

これまで使わなかったサイドチェンジとロングボールの多用

カウンターからの緻密なパスと素晴らしいシュート

世界3位相手の61位の戦いではなく、ランキング10位台でもおかしくない、堂々とした戦いぶりだったと思う

西野監督始め、スタッフの観察と考察、選手との意識共有の賜物でしょう。That’sチームプレー

一方のベルギーは1点取られて明らかに動揺してましたね

動揺した状態で前がかりになったところで日本がスキを突いて2点目を取った。

これはいけるんじゃないか・・・?

と一瞬でも思ったわけですが、この動揺というのが、アンラッキーな1失点目で日本にも広がり同じように、その動揺が収まる前に2失点目を喫してしまった。

そこで俺らのレオ将軍こと本田選手と山口選手を入れたけど、2点目入れられてから若干ピッチ外も混乱しているように見えた。

そしてロスタイム、本田の惜しいFKからのCK、たぶんそこで「延長戦かな」と思ってしまった最後の最後でシンプルなカウンターと「まあそうくるよね」というスルーで決勝点。

技術的と戦術的の面で、日本はベルギーと互角の戦いをしていた。いくつかの順位差を表すような稚拙なパスミスもあったけど。

でも結果は敗戦。技術・戦術で互角なのだから、それ以外の要因で敗けた。たぶんメンタル的な部分でやられた。だから皆なんだか納得いかない。

試合後、SNS等で「夢を見せてもらった」みたいな表現を使ってる人が多いのも、後半の展開がなんだか狐につままれたようなものだったからなんじゃないだろうか。

最後の最後で「これで延長戦だな」という油断があった。赤い悪魔はそこを見逃さなかった。たぶん総体としてGoodな試合という印象と評価の陰に、その油断の存在は押しやられてしまうだろう。

でも、16強の壁はチームの外にあったのではなく、自分たちの中にありましたよね。

今回の試合で改めて、勝負の世界においてメンタル的な要素が本当に重要だと再確認した

日本チームはメンタル的な強さはまあまああるとは思うけど、安定的ではなかった。どうやって解決するか見えないので「夢」にしちゃうのは、まちがいなく下策だ。