発達障害を抱えた当事者の気持ちを知ることができる良書『人の気持ちが聴こえたら』/ジョン・エルダー・ロビソン

アスペルガー症候群を抱えた米国人男性の治療記。

これまで読んだ本の多くは、どちらかというと精神科医や脳科学者という、治療者あるいは研究者の目線での著作が多かったので、当事者目線で書かれた著作、というのが手に取った理由です。

この本の著者は、発達障害の中でも、ASD(自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群)を抱えています。

ASDは、特に社会的なコミュニケーションや他者とのやり取りがうまくできない、興味関心の偏りといった特徴があります(詳しくは国立精神・神経医療研究センターのページをご覧下さい)。

長年他者とのやり取りで悩みを抱えてきたものの、失敗を重ねながら学習し、集中して取り組むことができた音響エンジニアや自動車修理の分野で成功を収めた著者が、あるとき大学の医学実験に参加することを求められます。

その実験は、頭の特定の部位に電気的な刺激を与えることで、脳内の神経回路の再調整を試みる、というもので、結果として自閉症などの症状が改善する可能性がある、というものでした。

人間関係について悩みを抱えていた著者は、その被験者になることを選び、大学での実験に参加します。

その結果、著者の世界観が大きく変容することを体験する。これまで理解できなかった音楽の歌詞や歌声に込められた思い、会話していて感知できなかった相手の気持ちがわかるようになった。ただ、その一方で著者の生活を支えてきたいくつかのものが失われます。

実験の結果、自分の変化が、決して手放しでオールオッケーということにはならない。
トレードオフの形で得られたものと失ったものがある中で当事者としてどのように感じるのか、という部分が、本書の核心部分です。

発達障害を抱えた人にとって、障害と世間から名付けられた特質を解消し、実態のない「普通」という状態に近づきたいという思いはある。

ただ、その障害が自身の仕事を支えてきたのも事実だし、過去の歴史を振り返ったときに、社会の重要な進歩に貢献した人達の一部は同じような障害を抱えていたとという事も指摘されている。
社会の多様性を担保する上で、自分達のような特徴を備えた人たちが必要なのかもしれない。

障害というシールの貼られた特徴とどのように付き合っていくべきか、著者の決断と根拠、思いなどが明確に記載されており、当事者の置かれた状況や気持ちを理解する上でとても参考になる一冊でした。

コレクティブインパクト型プロジェクトの事例研究~若者の就労マッチングを目指した若者UPプロジェクトのレポート公開~

HBR2月号のタイトルにもなった「コレクティブインパクト」

社会的課題に対して、立場の異なるプレイヤーがボランティアという形ではなく、責任をもって結果にコミットすることで、社会的課題の解決を目指す新しい協働の形

既存文献の中では、海外の事例が引き合いに出されていますが、事業規模や期間のばらつきはあれど、日本国内にもいくつか事例があります。

先月品川のマイクロソフト本社で紹介された「若者UPプロジェクト」もその一つ。

困難を抱える若者が、基本的なITスキルを習得し、円滑な就労に移行することを目指して、
民間企業x民間のNPOx行政
というプレイヤーがそれぞれが強みを発揮できる形で参画し、2010年から2017年まで大きな成果を挙げてきました。

さらに、2018年度からは、その成果と手法が認められ、厚生労働省の政策としてスケールアウトし、今では全国の若者向けの就労支援施設であるサポートステーション(通称サポステ)等で利用可能な制度として定着しています。

ありがたいことに、この取り組みについて当事者の方々にインタビューし、既存論文のフレームを活用しながら若者UPの成功要因について分析したレポートを執筆させていただく機会をいただきました。

社会的課題は、単一の組織で取り組んでも成果を挙げるのが難しく、時間もかかります。一方で、多様なプレイヤーの協働による取り組みは、理想的ではありますが、その分意思疎通やコンセンサスの形成、中長期的な関わりが大事になってきます。

若者UPというプロジェクトを取り上げながら、現場の当事者の考えや動きも織り交ぜてリアリティも残しながら紹介しています。社会的課題の解決を目指す多くの方々の参考になれば幸いです。

「わかりやすさ」と「わかったつもり」

池上彰氏の「わかりやすさの罠」を読んでいます。

帯の顔のアップ具合が、池上さんの知名度の高さをよく表していますね。ニュースをわかりやすく伝えるという意味で池上さんは日本でもトップクラスのキャスターなんじゃないでしょうか。

本書のタイトルにもなっている「わかりやすさの罠」

子ども・若者支援に携わっていると少なからず感じるところです。

問えば、幼児虐待の悲惨なニュースが報道されれば、社会は、親に対する熾烈な批判で埋め尽くされます。
非行少年の起こしたアクシデントや犯罪が起これば犯罪者は一方的に糾弾されます

でも、少し立ち止まって
「100-0」で親が悪いのだろうか?
犯罪を犯したことは確かに悪いことだが、なぜ彼はその犯罪に手を染めたのか?

という疑問一つ立てることができれば、単純に両親が、罪を犯した本人だけに原因を求めることの違和感を持つことは可能なはずです。

表面的なニュースを視覚的にスクロールして、「毒親」「悪人」という書き込みに「いいね」の親指が立ちまくる状況を見ていると、そういう違和感を持つ人がどんどん少なくなっているのではないか、と思う事がままあります。

池上さんのわかりやすさの価値は

「複数の事実が複雑に関係しあった情報の塊の一部を切り出して、そこの解像度を高めてくれている」

点にあるのであって

「複数の事実が複雑にあ関係しあった情報の塊」

をみせてくれているわけではないかもしれない、ということに気づく必要がある。

わかりやすい”断片”を見て、それがわかりやすい”全体”だと認識してしまうことが、「わかりやすさの罠」なんじゃないでしょうか。

だからこそ、池上さんのニュース番組を見て、全てが「わかったつもり」になるのは危険だと、同氏は警鐘を鳴らしているのだと思う。

時間があり、考える余裕もあれば、自分の目の前に突き付けられているニュースが誰かの編集を経て拵えられているのだから、他の情報と突き合わせてみなければならない、その余裕もなければ少なくともそのニュースが物事の全体だと錯覚したり、事実と完全に一致するという判断はしないでおこうとも思える。

その余裕が日本ではなかなか取れないのかもしれないですね。

さて本書ではその他、キャスターとアナウンサーの違いや、週末のニュースバラエティに出てくる巨大フリップ形式の見出しの位置づけとか、メディアに関わる方ならではのトリビアも散りばめてあります。

読んだ後テレビ番組見たら、見方が変わってると思う。

本家だけあって文章はシンプルでわかりやすく、かつ、伝えたいことのコアの部分が失われていない良書でした。

闇の中にはヒカリがあり、光の周りには壁がある。

荻上チキ氏の『彼女たちの売春(ワリキリ)』読了

「売春」と書いて、『ワリキリ』と読むそうだ。

心と身体ではなく、おカネとカラダという割り切った関係だから、ワリのいい、キリのいい関係だから、そういうことらしい。

彼女たちはワリキリという行為を自分で選択したことは確かだ。
でもその仕事を強要されたという文脈でやると決めたり、貧困状態や障がいを持った状態でやむにやまれず決断したという経緯の場合、それを自己責任と言い切るのはあまりに粗暴な言い分なのではないかと思う。

でも、それを粗暴と言い切るためには、この国にはあまりにもデータが少なすぎる。そういった領域からは目を背けたいという気持ち、経済的な豊かさを背景にして、そのような仕事が選ばれることはないだろうという自分の立場中心的な見方などがある。
さらに、仮に政府の統計によるデータがあったとして、それが本当に確からしいのか、という話も最近は出てきてしまうのが残念なところでもあります。

『売春はいつも、個人の心の問題などに還元されてきた。政治や社会の問題として語られるときは、包摂ではなく排除の対象として、セーフティネットではなくスティグマ(烙印)が必要な対象として、生命や人権の問題としてではなく風紀や道徳の問題として、売春は受け止められ続けてきた。』

と荻上氏は述べている。そして、そのような言説は、

『これらは凡庸で退屈な、無慈悲さに無自覚なクリシェ(常套句)である』

と切り捨ててもいる。
そこまで喝破できるのは、同氏が地道なフィールドワークを通じて、何百人もの女性や出会い喫茶の経営者へのインタビューを積み重ねてきたからだ。

3~4割は何らかの経済的理由で困窮
3割は何らかの病気や障害を抱えている
3割はDVや虐待の経験がある
2割が中卒、高校中退・高卒6割
友人・知人の紹介が約6割
1日に1万件以上のワリキリが成立
月に1度以上の頻度でワリキリを行う女性が、少なくとも10万人前後は存在していると考えられる

3割は何らかの病気や障害を抱えている
3割はDVや虐待の経験がある
2割が中卒、高校中退・高卒6割
友人・知人の紹介が約6割
1日に1万件以上のワリキリが成立
月に1度以上の頻度でワリキリを行う女性が、少なくとも10万人前後は存在していると考えられる

「風俗」「出会い喫茶」という言葉の裏に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた、ほとんどの人が直面したくないデータが、荻上氏の取材の中で、次々に浮き上がってくる。

そして、

『虐待や暴力を受け続けた彼女たちが、NPOや行政などに頼ったことがあるという話はほとんど聞いたことが無い。』

という支援サイドにとっては耳の痛い当事者の発言。
本当に支援を必要としている当事者には、支援がなかなか届かないという支援者サイドの声はこれまで何度も聞いてきた。それを改めて需要者サイドの言葉として聞かされると、需給のミスマッチの存在が、双方の発言から繋がってRealizeされる。

『家の無い者は生活保護を受けられない、というウワサ
生活保護を申請したら家族に連絡されて捕まる、という恐怖
売春は違法だから捕まって刑務所に入れられる、という思い込み
名前は聞いたことがあるけれど、どこに行けばいいのか、どんなものなのかも知らない』、という未接続状状態

サービス提供者側のリーチの拙さ、初動の遅さといった当事者から見たときの障壁の多さを衝いて、困難に直面した女性にアプローチしていくのは様々な風俗サービスやいわゆるカタギではないビジネスマン達。
多くの支援は、戦術面でそういった産業・ビジネスに圧倒的に劣後しているのが実情だったりします。

一方で難しいのは、そういったダークな産業・ビジネスの「黒さ」にも濃淡があるということでもある。後段で紹介される難波の出会い喫茶発祥の店の店長は、自分が始めた業態を次のように語る。

『女の子も、誰も好きでこんな世界に来るわけじゃないですやん。やっぱりお金がないから来るわけでしょう。あれもこれも辛抱せえ言われても、お金がなければ、自然の流れで売春っていう方法しかないですやん。そういう子だけやなくても、ただ人とうまう調和できないとか、理由があって朝起きられないとか、社会に順応でけへん子たちが働くところがあってもいいんちがうやろうか。』

ちなみにこの店長も、親に育児放棄されて農家の養子になり、カタギではない世界に身を投じた後に大病を患い、一時期は西成でホームレスをしていたという人である。

そしてそんな身の上の人から新規事業創出のための真言が飛び出してくるから事態は余計に複雑になるのである。。。
『発案した人間の魂っちゅうのがあるんですよ。魂っていうのは、コンセプトを言うんですけど。絶対に金を追いかけるな。人を追いかけろと僕は店員によく言うんです。』
この発言だけ切り出したら完全に新規事業創出セミナーとかで誰か言ってそう。でも、出てきたのは出会い喫茶という一風俗サービス形態だったりするわけです。技術とアウトプットは分けて考えなければいけないという誰かの発言を思い出しました。。。

荻上氏は、この創案者のインタビューパートの後に次のように書いている。

『批判として可能であることと、その批判が代案を用意してくれるかというのは別問題だ。』

出会い喫茶創出者は、彼の半生と反省を込めて、彼なりにできるパッチを充てた。
それは単純に風俗産業を糾弾して終わり、そこで働く人を批判して終わり、という人と比べてどう捉えればよいのだろうか。
来てくれればいい支援なんだ、更生できるんだ、と構えてるんだけど「Twitterはちょっと・・・、SNSは使い方が・・・」とか「まずは来所してもらってから・・・」とか言っている支援と比べてどうか。

そこには貧困状態から脱却できたかどうか、社会的な孤立は解消されたのか、不幸にも家族から向けられる暴力などから逃げられているのか、などなど色々な観点がある。たぶんどの物差しを手に取ったとしても、どれ一つとして満点回答が得られる対応ではないだろう。相対的に、ソレが少しだけ点数が高いというだけだと思う。

ひきこもりやニート、若年無業という問題、そして女性の貧困や困難という問題に固着しやすい売春という問題も、単一の組織、特定のサービスで解決するものではなく、教育機会の提供、家族の支援、就労先の多様性の担保とアクセス向上、貧困対策などなど多様な領域での支援を組み合わせてシステム的に解決することが重要ではないでしょうか

一部の支援者の方々にとっては、いまさら感のある話なのかもしれませんが、それを数値的なデータで裏付けようとされている点で意味があると思うし、そうじゃない人にとっても、当事者のリアリティを感じられる一冊だと思う。おススメ。

ひきこもりと孤立


私自身が当事者経験を持っており、就職してからもどういう縁か子ども・若者支援に関わる業務をずっと担当しているのですが、その過程で精神科医の斎藤環先生の著作には何度もお世話になっている。

本作も何度目に紐解いたことかわからないけれど、今回もこれまでとは違った示唆があり、勉強になりました

昨年、様々な地域の支援活動のお手伝いをさせていただきながら感じたのは、「ひきこもり」という状態は「当事者あるいはそのご家族の孤独」という状態とかなり密接に結びついているな、ということでした。

当事者を中心に据えると、彼・彼女は家族とも、会社や学校とも、地域社会ともつながっていないことが多いし

また、家族も表面上は毎日仕事をし、買い物をしに街に出ているとしても、当事者との間に抱えている問題を家の外に出すことにためらいを持っているという意味で、孤立している。

そんな孤立した状態からひきこもり状態になってしまう。

孤立ゆえに事態がさらに悪化するという悪循環にはまってしまい、問題が長期化してしまう、というケースがかなり多いように感じます。

いやしかし、この「孤立」というやつ。かなり手ごわい存在です。

若者支援の絡みで福祉領域の方々とお話していると、ひきこもりに限らず、「孤立」という状態は、大きくとらえれば孤独死や自殺、虐待といった事柄にもつながりうるトリガーにもなっているというハナシがたくさん出てきます。

孤立によって困難に直面している人、という意味では若者も大人も、高齢者もみーんな含まれる。

人間は社会的な動物だと言われますが、そんな人間にとって「孤立」というのは、本当に大きな影響を与える要因なんですよね。

話をひきこもりに戻すと、斎藤先生の本著作では、当事者のひきこもり状態を解消するためには、ご家族からのアプローチが非常に重要というお話をされています。

その時の対応の仕方としては、当事者の立場に配慮しながら、傾聴をベースに論理と感情のバランスを取り、地道にコミュニケーションチャネルを開いて太くしていく、というのが初手

当事者に様々な欲望が生まれてきたら、様々な支援機関と連携して社会との接点を作っていく、というが次の手

ということで、最初に家族の中の環境を整えることが重要、というご指摘は本当にその通りだな、と思う反面

支援の現場としては、そんな家族をどのように発見して、どのようにアプローチしていくのか、ということを考えるのが大きな課題になっているのも事実です。

孤立したご家族の社会との接点は何かを把握したうえで、接点になりうる機会を載せて流していく

そこで繋がったら徐々に家族環境を改善するための働きかけを提案していく

当事者およびそのご家族の状況を理解した上で打ち手を構築していくと、当然ながら自治体ごとにその仕組みは異なってくる。そこを行政の方がNPOや地域の支援リソースのプレイヤーと構築していけるかがとても大事です。

今の政策・制度の枠組みだと、孤立によって個人が直面する問題を、年齢層別に対応するという感じになっているけれど、いっそのこと「孤立防止・解消システム」として孤立した家庭をマルっとサポートしていけるようにシステムを変えてしまった方が効果的なのかもしれません。

もっとも、システムをがらりと変えても、そのシステムを活用するのは人なわけで、その人自身に様々なプレイヤーとの調整を図り、ゼロベースで支援の仕組みをデザインしていく能力がないと効果的な支援を実現するのはなかなか難しい。

そういう意味では支援者自身も変わらなければならないというのもあります。

本書は、支援者、特に異動したてで知識ゼロの行政職の方が、まず最初に支援の実務について理解するときなどに、とても参照性の高い一冊なのではないでしょうか。

普段目を向けない産業や仕事のことを知れる良書~『葬送の仕事師たち/井上理津子』

少年院に関わる仕事をする中で、自分が持っている漠としたイメージやステレオタイプが当てはめられるような環境があることに気づいた。

人の死に関わる環境もその一つだったんだけど、なんかの新聞かメディアの書評で本書に言及されたものがあり、『葬送の仕事師たち(著:井上理津子)』を読んでみた。

なんでもそうだが、まったく/ほとんど知らなかったことを知る、という過程は、初速の学習スピードが高い。

なくなった人と生きている人の接点をデザインする葬儀業者、亡くなった人の体に関わる湯灌・納棺・修復に関わる専門家、死体を荼毘に付す火葬業者から、亡くなった方を運ぶ霊柩車のドライバーまで、様々な職業の人が関わっていること。

そういった多様な人たちがプライドを持って仕事をしていること。

人の死に関わるビジネスの市場規模と行く末。

そういったことが本書の中で語られており、するすると脳みそに収容されていく。それだけで、自分が持っていた「人の死に関わる仕事=得体のよくわからない人たちがうごめく闇の産業」という図式は霧消する。 見回してみた感じ、自分の周りには葬送業に関わる仕事に就いている友人はいないけれど、もしそういう友人ができたら、この本のことを紹介しながら、「実際どんな仕事?」と、他の仕事とさして変わらない風に聞ける思う。

本書を読んでいて、本来想定していなかったけど印象に残っているのは、人の死というものの線引きは曖昧なものだということだろうか。

生物学的な死も、心臓が止まった時点とするのか、脳死が訪れた時点とするのかなど、厳密にいえばいくつかの視点があるので複層的なんだけど

葬送業に携わる人達の言葉から立ち上がってくる人の生死というのはさらに曖昧な感じになる。

葬祭の現場をデザインする人たちは、親族と死んだ人が語り合う姿を常に見ているし

エンバーミングという技術を用いて生前の姿に死体を整える仕事をしているエンバーマーは死体に語り掛ける

さすがに火葬場の職員の方々は、いかに身体をしっかり焼くか、という技術的な視点が大事だからか、生き死にの線引きは他の業種の人に比べると明確なように感じたけれど、それでも死んだ人を「仏さん」と表現しているように、そこに何らかの人格や存在を認めている。

「死亡」という事象の捉え方の多様性

このテーマは映画や宗教作品の中で何度もお目にかかったことがあるけれど、そのテーマに改めて、「葬送業」というビジネスの現場から光が当てられていることが新鮮だった。

さて、厚生労働省の統計によれば、日本では年間約130万人が死亡している(平成28年度)。

今後20年間で、160万人台まで増加することが見込まれているという。

少子高齢化という言葉には、生まれてくることと、生きていることという、「起点」と「プロセス」の特徴が表現されているけれど、「終点」である、死ぬことは含まれていない。死ぬことの特徴としては、「死に方の多様化」ということは言えそうな気がする。

どのような形で現世とお別れするのか

日本のように宗教観が多様な国においては、そのパターンは増えることはあれ、減ることはないと思う。

それに応じて、葬送という事象を扱うビジネスも多様化していかなければならない。人口減少する中で、ニーズが多様化していく市場は、ファッション・アパレル業界や音楽業界の性質にも通じるものがある。そういった趣味性の高い業界の来し方を見ると、葬送業も近々高度にIT化されていくシナリオも大いにあり得そうな気がする。

僕らが死出の旅に出るころには、自分の趣味嗜好や感情が高度に予測されてAIが我が家の経済事情と親族関係を考慮した理想的な葬式のプランを提案してくれるようになるのかもしれない。

仕事の在り方が変わっていくにせよ、本書で描かれているような葬送に携わるプロフェッショナルが現れてくるのだろうと思う。

ただ、そういったプロフェッショナルが生まれるためには、そういった仕事にちゃんと光が当たり、そこで働きたい・働いてもいいかなと思える人が増えることが重要だ。

そういう役割を果たす上で、こういう本があるのは重要だと思うし、社会としてもそういった仕事があることをちゃんと認識できるような働きかけをしていくことも大事だろう。例えば、学校の社会の授業や道徳の授業で取り上げるとかね。

一般教養的な知識を得る上でもおススメの一冊。

杜氏とデザイン思考

『日本酒の人-仕事と人生-』読了。どんだけ日本酒好きなんだよ、と思われそうですが、そんだけの魅力が日本酒という飲み物にはあるような気がするんですよね。。。

この本で紹介されているのは

飛露喜(廣木酒造/福島県)

天青(熊澤酒造/神奈川県)

白隠正宗(高嶋酒造/静岡県)

若波(若波酒造/福岡県)

天の戸(浅舞酒造/秋田県)

の5つの銘柄・酒蔵。内容は各蔵の杜氏のインタビュー。

ある人は蔵元を継いで社長兼当時としてやっておられたり、ある人は、脱サラしてゼロベースで酒造りに挑戦していたりと、背景は様々ですが、どの方もこれまでの酒蔵の伝統を受け継ぎつつも、変えるべき流れは変え、新しいことに挑戦する姿勢は共通しているように思います。

杜氏と二人三脚で蔵を切り盛りしていく蔵元の振舞いとセットで追っかけていけば、他の業種の企業の社内起業家の活動にも示唆があるんじゃないかと思います。あ、社内起業家本人だけでなく、彼等の上司の方にとってもですね(笑)

日本酒も一種の商品なわけで、それを世に送り出そうとするプロセスは、他の商品を考案して販売していくプロセスと共通するところがあるように思う。

例えば、商品のコンセプトを考えるところ。

デザイン思考の文脈では、マーケティングリサーチベースでマスからターゲットやコンセプトを導出するのではなく、むしろ「特定の一人」に焦点を絞り込んだところから商品開発を始めていくわけですが、廣木酒造の廣木健司氏は

「お嬢さんと結婚させてください」と相手のお宅へ挨拶に行くとき、お父さんへの手土産に選ばれる一本でありたい。それが自分が目指す飛露喜の存在場所であり、酒蔵としての究極の目標

と表現している。このぐらいまで銘柄のコンセプトが具体化されていると、味わい、デザイン、販売方法などもイメージが膨らみ、無駄のない仮説検証ができるのではないだろうか。

また、白隠正宗の高嶋杜氏は、お酒のコンセプトを考えるときに、人ではなく合わせる料理で語っているのも印象的でした。何にフォーカスするか、というときに無意識的に「特定の人」という風に考えてしまうところを、「特定の食材や料理」という視点でとらえているのが日本酒的だなと思う。

僕が造りたいのは、地元で造って、地元で飲まれる、本来の地酒なんです。地元で飲んでもらうためには、地元の食べ物に合うものでなければならない。地元の食文化ありきで造られたものこそが、本来の地酒だと結論付けたんです。そのためには地元の食文化を知らなければいけません。そこでいろいろ調べて行きついたのが、沼津名産のムロアジの干物なんです。

そういうシーンを思い浮かべたときにどういう味わいのお酒がいいのか、そこはもう試行錯誤の連続だと思うんですよね。しかも仕込んでから結果がでるまでだいぶ時間もかかるし、出来上がりの味が想像と違っていたとして、じゃあ複雑な工程のどこを変えれば味が変わるのか、といった検証ポイントも無数にある。場合によっては伝統的な自分の蔵のやり方を根本的に改める必要もあるのかもしれない。

そんなトライ&エラーの苦労や達成感といった話がリアルに綴られているわけですが、その姿は新しい価値を生み出そうとして苦闘するイノベーターの姿にダブるんですよね。

個人的には、そんなイノベーションが起きうる酒蔵というのが日本全国に1,000以上あるってのはすごいことだと思うし、ただでさえ美味しいそれらの銘柄が世に出るまでに、この本に書かれているようなストーリーがあることを知っていれば、お酒の味わいや、飲む時の場の盛り上がりなんかもだいぶ変わってくるんじゃないかと思うんですよね。

Appleコンピューターの最初のファンも、きっとハードの素晴らしさだけでなく、ジョブズがそれを生み出すまでの過程も込みで身銭を切ったと思う。

そこまで知ったうえで楽しむ価値が、日本酒というアイテムにはあるような気がする。


イノベーションとオープンダイアログの相性

慶應SFCの井庭崇先生の『対話のことば-オープンダイアログに学ぶ問題解消のための対話の心得』を読了。

 

オープンダイアログは、様々な立場の参加者が対話を通じて当事者の抱える問題を、解決ではなく「解消」することを目指す手法です。もともとはフィンランドの精神医療の現場で開発されたものだそうです。国内では、ひきこもり支援の文脈での活用がポツポツ出てきている感じです。

個人的には、この方法は精神医療での適業に限らず、より広い分野でも活用しうる方法だと考えています。

冒頭の書籍ではソーシャルイノベーション領域での活用可能性に言及されていますが、おそらくもっと広いでしょう。

広義のイノベーション、例えば新規事業の創出や既存事業の改善といった部分でも使える手法なんじゃないかな。

実際、私の働き先の一つで、若者の起業支援を展開するGOBでは、同社が支援する起業チームに対して定期的にメンタリングの機会を設けているんですが、このメンタリングとオープンダイアログの手法はかなり相性が良いです。

GOBのメンタリングの場では、チームのリーダーとメンバー、メンター役の自分に加えて、最近そのサービスのヘビーユーザーが参加して協議の場を設けています。

立場の異なる参加者が、車座になって無印良品の「体にフィットするソファ」に身を任せながら、毎週1~2時間、いろいろなことを話します。

話の内容も、メンバーの誰かが「あれについて困っている」「これをどうしようか」と話し始める。それに対して批判や責任者探しをするのではなく、話を聞いて、それぞれが感じたことやどうしたらいいかを自由に話し合う感じです。

話していると、当時者が直面している問題に対する解決するときもあれば、そういうことが生まれる構造そのものが解消されることもあったりします。

そんな風に話をするときと、そうでないとき(例えばチームとメンターのみ)とでは、話の内容や話し合い後の展開がかなり違ってくる。

 

他者として関わることのデメリット

当事者の立場・目線をインストールすることで見えてくるものの重要さ

チームとの対話に論点によっては、その関係が対立関係に近いものになる時もあったんですよね。

対立関係になってしまうと、問題を他者目線で考えてしまう。でも、その目線になると、当時者が抱えている悩みや、当時者から見える景色を共有できない。

その結果、彼等の本音に迫ることができず、彼等が抱えている問題を彼等の立場でアプローチすることが難しくなる、ということがままあるわけです。

ここで敢えてチームの話に対する自分の価値判断を保留して、まずは聞くに徹する。彼らの立場で見える景色を直に理解すると、地に足がついた展望が見えてくることが多い。

 

「当事者と支援者」単線型のコミュニケーションの限界

輻輳型のコミュニケーションによって見えてくるもの

対話の参加者が、当事者と協力者だけだと、解釈の幅はどうしても限られてくる。

でも、そこに多様なメンバーが参加して、問題に対する解釈を提示することで、多様性が担保され、当時者がとらわれていた問題に対するアプローチがたくさんあることが明るみになる。

「問題に対するアプローチは(これしか)ない」という認識でいることと、「いろんなアプローチがあるし、そもそも問題の捉え方もこれだけじゃない」という認識でいることは、当時者の心理的な余裕にかなり違いを生むようです。

異なる解釈の掛け合わせによって新しいアイデアが生み出されることもあり、そういう意味では多様な参加者がその場にいることのメリットは大きい気がします。

 

問題の解決ではなく、解消につながる対話

冗長な話の展開に身を任せてみる

問題を解決するためのKPIを設定して淡々とそれをモニタリングして、ビハインドしたときには、その解決方法を考えるという、一見整ったアプローチは、しかしながら、問題の解決に終始してしまうことも多いです。

同じような問題が断続的に発生するときは、その背後にある構造自体に手を入れる必要があるけれど、そこまで視点が貫通しない。

そういうときは、比較的話の論点が移ろうことを許容して、一見解決にストレートにつながっていないようなやり取りに身を任せてみると、実は本質的な問題に対する処方箋が提示されたり、「要はこうすれば解決じゃね?」というようなバンカーバスター的な意見がぽっと出てきたりする。

対話の論点の枠を設定しないことで、多様な解釈がそのポテンシャルを発揮できるようです。

 

透明性、信頼関係、持続性

こういった対話の場が構築できている背景として重要なのは、「信頼関係」「透明性」「持続性」という相補的な要素がベースにあるのが大きいと思います。

お互いがどういう考え方の人なのかわかっているからこそ、正直に話せる。何度会っても苦にならない。

話している内容がお互いいい意味で筒抜けなので、相手を思いやりながら話せるし自分がどう考えているのか、どう思われているのかを受容できる、次回の打ち合わせが怖くない。

何度も続けているからこそ相互理解は深まり、本音を話すことができる。

この要素があると、オープンダイアログの効果はかなり高まると思います。偶然にも、参加しているインキュベーションチームがこれらを満たしていて、非常にいい環境で検討を進められているように感じます。

 

オープンダイアログの活用事例は、国内でもまだ少なく、医療・福祉領域に限られているけれど、適用可能な領域はかなり広いでしょうね。

特に、じっくりとPMF(プロダクト・マーケット・フィット)を検討するシード期のインキュベーションチームを支援する方法としてはかなり有効な気がします。

メンバー間の対話のスタンスや用語を統一するという意味で、本書の内容を共有しておくと、個々の協議のクオリティだけでなく、中長期的なチームのチカラもかなり変わってくるんじゃないかな。おススメです。

少年院という学校、刑務所という福祉施設

前職卒業して、身体の半分くらいを子ども・若者の自立支援に関わる活動に投入してからというもの、少しずつですが、支援の現場に近いところで仕事ができるようになりました。

少年院に入っている少年に勉強を教えるというのもその一つ。


少年院というところ、普段生活していてなかなか目にすることも、耳にすることもない施設ですよね。

でも、実は都内にも何か所かあり、上記の記事はそのうち八王子にある多摩少年院に訪問したときのもの。

少年院で生活している少年たちと一緒に考えていて感じたことは、

「少年院に入ってない同年代の子とあんまりかわらないな…」

ということでした。

もちろん、珍しい外部の人に対して”余所行きの顔”をしているのかもしれないですけれど、正直自分が想像していたイメージよりずっと、おとなしいし、真面目だし、何かがわかったときの反応なんか、起業を目指す人が見せる表情とさして変わらないんですよね。

どーも僕らは、現実をあまり知らないようです。

よく考えたら、ニュースでも「事件が起こった」ということは盛んに報道するけれど、その後のこと(起訴されたのか、裁判でどのような判決が下ったのかなどなど)になると、急に情報量が減る気がする。

ましてや、刑務所に収監された後、少年院に入院した後のことまで追っかけている人は、関係者以外皆無なんじゃないだろうか。

ニワトリタマゴの話で、僕らも興味関心がないし、メディアも報道しない。

施設の存在は知っていても、そこにどんな生活があるのか、ということは誰も知らない

その最たるものが、刑務所や少年院といった矯正機関なのではないだろうか。

そんな問題意識が、なんとなーく頭の隅にひっかかりながら生活していたら、先日寄った荻窪のとんがった書店「Title」でみつけちゃったわけですこんな本。

なんすか、この敷居の低さを体現した表紙デザイン。

ユルい。ユルすぎる。仮にも犯罪者を収監する施設について書かれた書籍です。灰色とは言え、ハートはいかんでしょ。しかも、ハートで囲まれているキャラの罪のない佇まいもいけません。何がいけないって・・・そこは、よくわからないけども、とにかくマズいですよ・・・。

そんなデザインにまんまと手を伸ばし衝動買いの本の山の一冊に加える自分。LIBROの時と行動がかわってません。

読んでみます。むむむ。これです。無知の状態にある者だけが感得できる、空っぽの容器に勢いよく水がバシャーって注がれていくような、初期の知識充足の満足感。

これまで知らなかった刑務所の現状についての情報が、無知という脳内領域をみるみるうちに塗り替えていきます。

いくつか例を挙げると・・・

・2016年に刑務所に入った受刑者の約2割は知的障害のある可能性が高い

・最終学歴は中卒が最も多く40%、高卒が30%、大卒は5%。

・知的障害のある服役者で、収監された理由で最多のものは窃盗罪、次いで覚せい剤取締法違反、次が詐欺罪。文字だけだと凶悪なイメージだけど、内実はパンとかおにぎりを盗んだり、ダッシュボードに置いてあった30円を盗んで懲役、クスリの運び屋させられて懲役、無賃乗車、食い逃げ、オレオレ詐欺の出し子やらされて懲役、みたいなものも多い。しかもその理由はだいたい「生活苦」

・知的障害のある受刑者の服役は平均3.8回。65歳以上の知的障害のある服役者だと70%が「5回以上」

本当は高齢者の受刑者の話もしたいんだけど、ここでは障害を持つ受刑者のファクトのみを列挙してみた。

ここまでだけでも、既に自分が抱いているイメージとだいぶ違う。そして、一冊読み切ると、だいぶ違うどころか、ほぼ完全に自分のイメージが実態と違うことがわかる。

この本で問われていることは、刑務所に収監されている人は犯罪者なのか、被害者なのか、なんなのか?ということだと思うんですよね。

犯罪行為が社会的な制裁を受けるべき行為であることは間違いない。

でも、この本の中で紹介されている服役者は、加害者なんだろうか。犯罪者なのだろうか。

自分の行動をうまくコントロールできない。

うまく表現できない。

自分を見る人の目は初期状態からして疑いの目、得体のしれない者を見る目で見てくる。

生活は苦しい。

そんな状態で何かのきっかけでパニックになってとった行動で捕まり、裁判の場では意図せず裁判官の心証を悪くする言動をとってしまい、それが反省の色なしと取られてしまって懲役が決定してしまう。

感情のコントロールや表現方法が他の人とちょっと違うとわかる人がいれば

「まあそういう感じの人もいるよね」とフラットに見てくれる人がいれば

彼の生活の苦しさや孤立を解消できるような仕組みがあれば

多くの人が刑務所に収監されなかったかもしれない。

著者も

『障害のある人を理解するっていうのは、腫れ物のようにあつかうことでも、むやみに親切にすることでもない。自分と同じ目線で接し、彼らの立場になって考えてみることだ』

と言っているように、大事なのは、自分も相手も、それぞれ異なるということを前提にした上でのフラットな関係を作れるか、ということなのだと思う。

まあ、それが今の日本社会では難しいので、本書で紹介されているような、むしろ収監された方が困っている人にとっては幸せ、という歪んだ状況がうまれているのだろう。

生活苦と孤立というハードモードの世間に比べて、刑務所の生活の難易度の低さ。

屋根と壁のある生活。

食事は三食。

世間の人より理解のある看守。

累犯者が多い理由の一つは、世間と刑務所の「生きやすさの逆転現象」が起こっているからだったのだ。

刑務所に戻りたいから、出所した直後に万引きする老人の事例が紹介されているけれど、迎える社会の生きづらさが、彼等に罪を重ねさせる側面も確かにあるだろう。

そんな生きづらさを抱え、微罪に再び手を染めてしまった彼らは犯罪者なのだろうか。

間違いなく犯罪を犯した時点では犯罪者だ。でも、その前後の過程まで視野を広げてみると、彼は実は被害者だったのかもしれないとも思う。

点的には犯罪者、線的には被害者だ。

そして、彼らを取り巻く面としての社会は、もしかしたら加害者と言えるのかもしれない。

そう考えていくと、刑務所って、加害的な社会から障害を抱えた人や行き場を失った老人を匿う福祉施設のようにも思えてくるから不思議だ。悔い改め更生させる矯正施設とはなんか違う。。。

この本でも「刑務所の福祉化」という表現が使われているけれど、もはや実態として福祉施設に近いのかもしれない。

少年院に入ったときも、少年と24時間365日をともにして、少年の更生のために働く法務教官の方々の姿勢が印象的だった。少年院は矯正施設だけど、まぎれもなく教育施設だった。

刑務所は福祉施設で、少年院は教育施設。どういうこっちゃ。

どうも自分が持っている認識と実態はだいぶ違う。たぶんそんなことは世の中たくさんあるんだけど、一番実感できるのって、僕らの社会がいちばん目を背けてきた、矯正施設という領域なんじゃないか。自分は運よくそういう経験ができてる気がします。

ということで、ちょっと蓋開けてみてみませんか。

少年院なんかは定期的に見学会を開催していて、そちらもおススメですが、ちょっとハードル高いという人はまずこの本からどーぞ。

ちなみに、少年院に関する本でおすすめなのはこちら。

少し前に閉院した奈良少年院に在院していた少年たちがつくった詩の詩集です。冒頭のように、「彼らと施設の外で生活している同じ年齢の子たちと何が違うんだろう」と考えさせられる一冊です。

企てる人の起業論 みうらじゅん氏の「一人電通」

こういうのはね、勢いなんですよ。衝動的に買った本をいわゆる”積ん読”にしないために必要なのは。ということで、今度は

を読了。

やばいですね。これ、完全に起業論です。というよりも”企”業論といった方がよいかも。

自分が「これはくる!」と思ったことをどのように育てて社会に広めていくのかが、みうら氏の特徴的な表現の形で、自身の事例を多数取り上げながら紹介されています。

特に会社単位でも、チーム単位でもなく、個人という最小携行人数で始める場合、本書で紹介されている方法論は参照性高し、です。

みうら氏の企業論をかいつまんで言うと

1)マイブーム化

ジャンルとして成立していないものや大きな分類はあるけれどまだ区分けされていないものに目をつけて、ひとひねりして新しい名前をつける。

2)一人電通

「マイブーム」を広げるために行っている戦略。デザインや見せ方を考え、メディアで発表し、関係者を接待する。

の2ステップです。マイブームって言葉はみうら氏が考えた言葉だったんですね。一人電通ってネーミングもセンスがやばい。こちらは電通が世間一般の認知度が低いので人口に膾炙してないですが、電通のことを知っていれば一発でその意味内容とすごさがわかる情報的な奥深さを持っている気がします。

で、2つのステップの要点をもう少し紹介すると

「マイブーム化」のフェイズで重要なのは、「自分洗脳」と収集

『あらゆる「ない仕事」に共通することですが、なかったものに名前をつけた後は、「自分を洗脳」して「無駄な努力」をしなければなりません。~中略~

人に興味を持ってもらうためには、まず自分が「絶対にゆるキャラのブームが来る」と強く思い込まなければなりません。「これだけ面白いものが、流行らないわけがない」と、自分を洗脳していくのです~~

そこで必要になってくるのが、無駄な努力です。興味の対象となるものを、大量に集め始めます。好きだから買うのではなく、買って圧倒的な量が集まってきたから好きになるという戦略です。」

まずは自分自身がその事業に対する過剰ともいえる思い入れを持つこと。このことは新規事業を立ち上げる際の幾多の困難や理不尽を乗り越えるために必須の条件であると言えます。そのためにはもはやひっこみがつかないくらいのファクトを自分の手と足で積み上げてしまうのが一番早い。もうそれで勝負するしかない!という退路を断つ感じですね。

そして、マイブームを様々なメディアで発信していく。そのときのターゲットについてみうら氏は

『私は仕事をする際、「大人数に受けよう」という気持ちでは動いていません。それどころか「この雑誌の連載は、あの後輩が笑ってくれるように書こう」「このイベントはいつもきてくれるあのファンに受けたい」とほぼ近しい一人や二人に向けてやっています。~~

知らない大多数の人に向けて仕事をするのは、無理です。顔が見えない人に向けては何も発信できないし、発信してみたところで、きっと伝えたいことがぼやけてしまいます。」

と述べておられます。

サービス開発やリリースの初期の初期には、不特定多数の誰かではなく、特定個人のあの人に向けてアクションしていくことはとても重要だと思います。デザイン思考のペルソナにも通じる概念ですね。

そして、様々なメディアに同じテーマについてコラムを書くことで、断片的なブームの地雷をしかけておく。生活していると連鎖的に地雷を踏んで「あれ、これイマきてるのかも!?」と思わせる。

そうなってくると、徐々にマイブームは社会的なブームになってくる。この「ブーム」についてのみうら氏の表現がまた秀逸で、ブームの正体は「誤解」だ、と言ってるんですね。

『ブームというのは、「勝手に独自の意見を言い出す人」が増えたときに生まれるものなのです。』

本来の価値はちゃんとあるけれど、受け手の解釈の余地が担保されていて、そこから多様な誤解が生まれることがブームである。商品やサービスが作り手の元から離れて社会の元になる過程は、それがブームになる過程でもある。発信者としては親のような心情に駆られるかもしれません。

そして、接待。

『酒を酌み交わせば、おのずと距離も近くなるというものそのとき編集者と作家は同胞である、友達であるという認識が初めて芽生えます。同じ仕事をするならそうしないと楽しくない。そもそも、自分の才能を認めてくれた第一人者なのですから、仲良くなりたいと素直に思います。』

これは非常に共感。というかもうこれ接待じゃないよね。キックオフMTG withリカーと言った方が近いかも。無駄な格式をそぎ落とし、柔軟な発想を生み出すような場が、接待という行為で生まれる気がします。

とまあ、一人電通のエッセンスが存分に詰まった一冊となっておりまして、示唆にあふれる一冊です。読みやすいし、紹介されている事例なども爆笑もので、僕なんか読んでて10回くらい声出して笑ってしまいました。

みうら氏は終盤、自身の企業の方法を、こうも語っています。

ばらけると意味がない。それが「ない仕事」の真髄だと、自分でも初めて気が付いたのです。そもそも違う目的でつくられたものやことを、別の角度から見たり、無関係のものと組み合わせたりして、そこに何か新しいものがあるように見せるという手法

イノベーションを生み出すための本質ですよね。

ビジネススクールに行かなくても、こういう示唆が転がっているあたり、日本のサブカルチャーって凄いなと思います。

ということで、改めてやっぱりおすすめの本書。ぜひどーぞ。